また歌集を読んだ備忘録。
というか最近このブログが結構な割合で歌集の紹介になってきましたね。ツイッターだと漫画とかゲームの話題しかほぼしてないしな・・・。
今回は竹内亮さんの「タルト・タタンと炭酸水」です。
サウナ後の休憩室でするすると数時間で読むことができた。軽やかな歌集でした。でも跡引くほんのりとした苦味も感じる。
表紙のイラストのようにしっとりとしたおしゃれ感があり、どこか切ない水彩のような風景描写が目立つ内容。
しずかにスケッチしていくような穏やかな視線が世界に注がれているのを感じられる作風。非常に素朴で、ときに神の視点のような「ここを見るか」という強烈な観察眼も感じられてドキドキしてしまう。
感情を思いきり込めたような作品は少ないけれど「この世界のなかでそこに目を向ける主人公」という像のキャラクター性のようなものは伝わってくる。感情をうたわない歌だからこそ感覚的に察知できる。
春の雨は草の匂いを漂わせ先に傘を閉じたのは君
先に傘を、閉じたのは君。なにか始まるんだろうか。
ここは「先に傘を」が6字で明らかにテンポを違えている。欠落の違和感が、ついつい想像を膨らませてしまう。
だから、ほのぼのとした口調で切り取られていく風景写真のようなのに、どこかで虚無感やつめたい感情が差し込まれているようにも思える瞬間が歌集のなかにアクセント的に配置されている、・・・気がする。
気に入った歌をいくつか紹介。
川べりに止めた個人タクシーのサイドミラーに映る青空
非常に限定的な描写がされている、道をゆく主人公がみつけた小さな小さな青空をスケッチしたような一首。
川べりの、個人タクシーの、サイドミラーの、なかに映る青空。
とても具体的であるため、そこを描き切り取ることで一瞬の軌跡を永遠化したような魅力がある。きっとどこにでもあるもの。けれど誰も気づけていない美しいもの。それが次の瞬間には無くなっているんだろう。
こういう限定的な描写で救い上げることで、刹那の宝物のような質感が増していとおしくなってくるんだよな。本人に中でこの風景はほとんど固有名詞化してそうな感じというか。
ジーンズの裾に運ばれついてきたあの日の砂を床におとして
短歌という31字を使う詩は、ものを描写するには結構オマケを付けられる詩形態だと思っていて、そのオマケの部分であそべるのも魅力だと思う。(そのぶんより研ぎ澄まされる句なんかは緊張感があるように個人的には感じている)
この一首も「そこを見つけるか」という視点の面白さかな。やや回りくどい言い回しもファニーでかわいらしい感じ。
ジーンズの裾にたまった砂を払うという風景。「あの日の砂」と特定できるということは、きっと特徴ある砂なんだろう。砂浜に行った思い出が蘇ってきたのかもしれない。その砂は「運ばれついてきた」のだから、その砂を眺める主人公のナイーブな感情も読み取れる。でもそれを床に落とすのだ。そうしてあの日の砂はただの砂となって、そしてホコリのように捨てられて、去っていく。
終電の一駅ごとに目を開けてまた眠りゆく黒髪静か
今度は電車内の風景に移る。このときの静かな空気、すごくわかるなぁ・・・。みんなうつむいて目を閉じて、時間がすぎるだけの一日の終わり。疲労感が支配する体に、電車の揺らぎが心地よい。なんかすごくヒーリング効果のある風景だと思う。各々の一日の終わり。
雲が白い夏の初めの風の朝きみ柔らかな瞼を開く
「雲が」「白い」「夏の」「初めの」と、短いセンテンスを連続させるリズム感が好き。そういう歌は結構この本の中に出てくるけど中でも一番美しいと思う。「瞼を開く」のどこか物体を眺めているかのような視点、フェチズムも感じる帰着が印象的。
「風の朝」「きみ」「やわらかな瞼」の繋がりって日本語としてのつながりがとても弱いのに、スッとイメージがつながっていくのも好き。
目が覚めた。というより、まるで導かれたような爽やかな覚醒が眩しい。
そんな感じで。
安定の書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズでした。このシリーズついつい買ってしまうよな。
喉元ではじけていく炭酸水のイメージそのまま、眩しくて心おちつく言葉の世界を堪能しました。