「正直どうでもいい?」

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残照へのまなざし軽く『ビギナーズラック』

 

ビギナーズラック

ビギナーズラック

 

 

歌集「ビギナーズラック」の感想をちらほらと。

作者の阿波野巧也氏は1993年生まれということでかなり若い歌人さん。自分が92年生まれなのでほぼ同年代で、そういう意味でも興味深かった。

 

印象としては、ポップで読みやすい歌集。
スナップ写真的というか、SNSに何気なくいい感じの写真をあげていくアカウントのタイムラインをつらつらと眺めているような感覚。

もの言いたげな風景が切り取られ、そこにほんのりと書き手の感情が乗っていく。

前の更新で紹介した「タルト・タタンと炭酸水」と連続して読んだことになるのだけれど、風景描写もどこか切り取り方が違っているように感じられて面白かった。

「ビギナーズラック」のほうがどこか無機質な感覚。けどそれは生き物の存在や感情に左右されない、ある種の永遠性を宿しているような虚無感がにじんでいる歌が印象に残った。

 

例えば個人的に好きな一首を引くと

 

町じゅうのマンションが持つベランダの、ベランダが生んでいく平行

 

それはもう、単なる事実なのだけど、そう切り取られるとまるでこの世界の隠されたシステムを見つけてしまったようなハッとする感覚がある。ちょっと恐ろしくなってしまうほどに。

そりゃそうなんだよな、ななめになっているわけはない。すべては平行だ。けれど改めてそれを突き付けられると、この世界の違和感のようなものに気づかされてしまって、ベランダから引かれた補助線が見えるようになって、そしたらもう戻れない。

世界の見方を変えてしまう一首だと思う。

この一首から個人的の浮かぶのは無機質な高層マンションのベランダ群なのだけれど、でも歌集を通じてこの一首に出会ったとき、また違う印象になるはずだ。学生街のきっと雑多なベランダなんだろうな。けれどピシッとそろっているベランダ。それが良いとも悪いとも言わない、無感情なんだけれど無感動ではない。言語化が難しい・・・でもとても好きな一首。

 

フードコートはほぼ家族連れ、この中の誰かが罪人でもかまわない

 

この「誰かが罪人でもかまわない」というフレーズの鋭利な感覚。一発で思考を持っていかれてしまうような衝撃がある。

大勢の人間がいる空間に対しての感情が複雑に、でも温度感だけはストレートに伝わってくる気がする。人類が安心を得る為に営んでいる空間、そしてシステムそのものの俯瞰のようでもある。ごくごく個人的な主人公目線の、ちょっとだけアイロニカルな物言いのようにも感じる。

これだけ人間がいるなら、悪いヤツのひとりやふたり、いるだろう。けれど、これほどの人間を前に凶行に及ぶことも、まぁないだろう。それって不安だろうか。安心だろうか。

我々はどれだけ、名前も知らないだれかを信じられるだろうか。
いや、名前を知っていたとして。

そんな思考がぐーるぐるとやってきて、絡めとられていく。

 

 

 

でもこういう歌ばかりではなくて、大学生のモラトリアム感だったり豊かな感情がパッケージされた、等身大の歌も数多い。 

あとがきなどでも触れられているが、まぁ読めばかなりわかりやすく描写されている。

作者の大学時代と、その時代に過ごした京都の町と、親しい時間を過ごしていた女の子。それら青春のにおいが色濃く、また断片的ではあるが物語として再構築されていくラフスケッチ。

 

きみの瞼がきみを閉ざしているあいだひっそりと木立になっていく

 

「きみの瞼がきみを閉ざしている」という言い回しのオシャレ感。
「木立になっていく」の、できるだけ密かに、けれどそばに佇もうという想いの発露。モロにぶっ刺さった1首。

 

すれ違うときの鼻歌をぼくはもらう さらに音楽は鳴り続ける

 

なんて暖かな光景だろうな。鼻歌をもらうといういたずらめいた遊びから飛躍して、「さらに音楽は鳴り続ける」のフレーズて、ひょいっと軽やかに高次元で跳躍するような感覚。

きっとそうやって他愛もないことの連続で生活や音楽が巡っていく。

 

きみの書くきみの名前は書き順がすこしちがっている秋の花

 

「きみ」のリアリティよ。秋の花とリンクする名前とはなんだろうなとふにゃふにゃ考え込んでしまううちに、自分の名前の書き順を間違えてしまっていることの人間としてのリアリティある欠陥、そのキュートな感覚。

 

時間は常に置き換えられてゆくけれど引くだけで楽しいはずれくじ

 

時間は置き換えられていく。可能性ある未来だった「明日」もすぐに無益でくだらない一日へと変わっていく。モラトリアム的な感覚でもあり、それはもう人生の本質なのかもしれないとも思う。この残照感。

日々をくじ引きとしたら、それはもうハズレくじの割合がかなり高いんだろうな。でもくじ引きって「引くだけで楽しい」ということもまた本質。もしかしたら。次はなにか変わるかも。そうやって今日も今日がはずれくじになっていく。なんだか愛おしくなる一首だと思う。残照をゆっくり見送るような眼差しがたまらない。

 

奪ってくれ ぼくの光や音や火が、身体があなたになってくれ

 

これは特に抒情的なフレーズが差し込まれているなぁ。「ぼく」が「あなた」に受け渡されていく、強い祈りを伴う身体感覚にビリビリと揺さぶられてしまう。

 

対照的に、書き手の表情を伺えない歌もある。しかしこのありふれた風景の中で、あえてそこに視線を注ぐときの感情はゆっくりとこちらに染み込んでくる。

 

街灯がしっかり地面を白ませてだれもならんでいないバス停

 

ならぶための空間にだれもいないことの些細な違和感。 この切れ味。

スマホで気楽に取る写真にもセンスはあらわれる。同じように31字の詩で空間や物質を描写するときにもセンスは間違いなく現れるし、この作品はひたすらにそのうまさというかズルさを感じる。こんなにエモく「今」を描くなんて、それは好きになるでしょう。

 

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そんな感じで大学時代の美しい思い出たちや、日常のワンシーンを切り取っていく。

感情を強く出すことはあまりなく、基本的には素朴な口調だと思う。だからわりと感情移入しながら浸ってサクサク読める。サクサク読めるし、何度も読み返す。一首一首、切り取られる画面や感情がとても鮮やかなのだ。いい匂いをもう一度かぎたくなるように、ページをいったりきたり彷徨って、いい読書ができたなと感じることができた。

  

 

 

斉藤斎藤氏が寄稿している内容で、作者がSNS世代であることに触れている。自分自身がそれに近い歳であることもあり、ひとつの世代論的にも面白かった。
ともすれば脱力的な無作為感の中に緻密な練り込みがされている事も理解できた。

やっぱりまだまだ歌集を読みなれていないので、こういった識者のリードがないことにはうまく読み砕けなかったりする場面も多い。ありがたい。

 

読むと少しだけ視線が上がって気持ちが軽くなってくる歌集。通勤カバンにしばらく突っ込んでおきたいな。先程も書いたが軽やかな読み心地なので読み返しやすいのが嬉しい限り。