「正直どうでもいい?」

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ぼくとスピッツ、というような話(30周年に寄せて①)

 

スピッツが今年でデビュー30周年です。

 


それを記念した新曲。どこをどう聞いてもスピッツだ。スピッツはいつだって100点なのだ。いつでも聞けて、いつでも染み込んでくるのがスピッツだと思う。


今年2021はデビューから30周年。
ベスト盤とかが出たのが2017年、結成30周年のときで、個人的に語るタイミングを逃してしまった。
せっかくなので今年は「ぼくとスピッツ的な記事でも書いて、自分なりにスピッツの30年のことを振り返ってみようと思う。

といっても自分は1992年生まれの29歳なのでデビュー時まだ生まれてなかったわけだが。30年音楽をやってるってメチャクチャすごいな。

30周年ということで、いろんな媒体でもスピッツを改めて語られているのを見かける。そういうのを摂取することで、自分語りへと向かう勇気を持つことができた。

 

 

 

 

 

原初の記憶をたどれば、ロビンソンとか空も飛べるはずとかチェリーは当時幼稚園児とかだった自分の脳みそにもメロディが残っていた。しかしスピッツというミュージシャンとして認識はしてなかったので、出会いはもっと先になる。

たぶん最初は「遥か」だったと思う。

 

 

サビの部分だけ聞いて「なんていい声なんだ」「スピッツっていう人が歌ってるのか?」と興味を持ったのをなんとなく覚えている。

当時、アニメのデュエルマスターズを見る為に登校前は「おはスタ」を見ていた。たしかその音楽紹介コーナーで流れたんだと思う。記憶がおぼろげだが、当時の自分のあらゆる情報源は「おはスタ」だったからたぶん間違いない。「週刊プレイボーイ」におじさんが欲しいすべての情報が詰まっているように、「おはスタ」にはキッズが欲しい情報全部ある。(そうか?)

 

ともかくこの「遥か」のサビですよ。この果てしない遠くまで連れて行ってくれそうな神秘的な響き。今聞いてもめちゃくちゃ気持ちいいんだが、当時こんな音楽は聴いたことないぞと、びっくりした。ただCDを買うという発想はなかった。

 

中学に上がると学校の授業もPCに触れたし、家では父親が使うPCを夕方つかうことができた。そのころスピッツは「スターゲイザー」でまた注目を集めたころだったかと思う。やっぱ当時の「あいのり」はすごかったよ。見てなかったけど・・・。

 

PCに触りだした中学生は「おもしろフラッシュ倉庫」に入り浸ることになる。後から聞いても同年代共通のムーブメントだった。俺はフラッシュ倉庫で見た「はげの歌」を覚えて友人と休み時間に歌ったりした。ニコニコ動画はまだなかった。

フラッシュ倉庫には歌に映像を付けたオリジナルMVのような作品もたくさん見ることができた。そこで「空も飛べるはず」のフラッシュを見てめちゃくちゃ感動したのだ。いま探しても権利問題的に動画サイトからは削除されてるし、作者さんの元サイトも見つからないのでここで紹介は出来ないが・・・

ちょうどこの「風になる」のフラッシュと同じ作者さんだった。このテイストの絵を見て思い出す人はいるんじゃないだろうか。

 

 

このフラッシュで「聞いたことのあるあの曲はスピッツの曲だったのか!」と発見があり、スピッツのベスト盤「リサイクル」を中古で買った。

フラッシュという二次創作から曲を聴いて、中古でCDを買う、しかも例のいわくつきのベスト盤。とことんスピッツに顔向けできないムーブをかましている中学生だな。

この歌ものフラッシュからBUMP OF CHIKENの「K」を知ってCDを買いに行った。自分の音楽的趣味にめちゃくちゃ強い影響をあたえているなフラッシュ倉庫・・・。

 

ベスト盤「リサイクル」はめちゃくちゃいいCDだった。多分だけどこれまでの人生で1番CDプレイヤーでかけたCDだと思う。今となっては、心情的にそんなに再生することはないけれど。

ここで一気にスピッツにはまって、もっといろんな曲を聴くためにアルバムをゆっくりと集めだした。1st「スピッツ」から当時の最新アルバム「スーベニア」までをコンプリートしたくらいのときにニューアルバム「さざなみCD」の発売が告知される。

本当にたんなるシャレに過ぎないが、自分のハンドルネーム「漣」をスピッツとがつながったことでメチャクチャテンションが上がったんだよな。普通にアルバムとしても良盤だと思う。

 

それ以降はリアルタイムでスピッツを追いかけていくことになる。

勉強しながらでも、通学中にでも、とにかくBGMはスピッツのことが多かった。ラノベでも漫画でもなんにでもイメージソングを考えるいっぱしのイメソン厨となっていた俺はひたすらスピッツを聞きながら別の物語の味わい方をあれこれ探していたりした。

切ない夏の物語には「夏の魔物」を、えっちな物語には「プール」を十八番としてイメソン展開をしていった。悲恋の幼馴染には「仲良し」を、スペーシーなSFには「ババロア」を、堕落した日々には「猫になりたい」を、刹那的な一夜には「夜を駆ける」を、遠く離れたきみには「流れ星」を、ノスタルジーにたっぷりをひたした「愛のことば」を、正夢とおもいたいような美しい場面に「正夢」を、感動のエンディングに「夕陽が笑う、君も笑う」を。

自転車をこぎながら爆音で聞く「バニーガール」「スパイダー」は最高だし、憂鬱な日曜夜に聴く「あわ」「大宮サンセット」は心をやわらげてくれたし、嫌なことがあったら「みそか」「ワタリ」を聞いた。好きなキャラクターの顔や後ろ姿を思い浮かべながら聞く「ロビンソン」や「運命の人」や「フェイクファー」は自然と泣けた。

そんなことになったのはアニメ版の「ハチミツとクローバー」の影響が大きいと思う。このアニメからスガシカオを聞くようになったし、スピッツの曲も贅沢に使用されていた。特に印象的だったのは「魚」「夜を駆ける」「スピカ」といった第一期での使われ方だろうか。あのアニメのせいでなんにでもBGMを付けて遊ぶくせがついてしまったな・・・。「魔法のコトバ」が映画に使われたのもうれしかった。

 

 

閑話休題

正直なところ、すこし距離を置いた時期もある。

アルバム「とげまる」が当時あんまりピンときていなかった。「シロクマ」「恋する凡人」など大好きな曲も多いが、アルバムとしてはいまだにあまり聞き返さない。

でもその後に発売された「おるたな」でスピッツ最高論者に戻り、「小さな生き物」以降、すこし違うモードに入ったスピッツを2021年に至るまで好きでい続けている。

少し違うモードというのはやはり3.11の大震災の影響だと思う。それとは直接言及することはないが、明らかに「とげまる」と「小さな生き物」のはざまで空気が変わってきていると感じる。その後の「醒めない」なんかはキャリア全体を見渡しても相当上位に食い込むほどに好きだ。

 最新作「見っけ」も細部に新しいスピッツが感じられて、まだまだ進化を止めない姿勢が感じられて本当に嬉しい。

 

スピッツの魅力を改めて考えてみると、こんなにひねくれたマイノリティの世界を映すアーティスティックな活動をしながらも普遍性、大衆性を獲得した稀有なバランス感覚というところが大きいと感じる。

「なんかよくわかんない歌詞だけど、たぶんいい感じのことを言ってる~」と脳みそが錯覚を起こす、草野マサムネの天才的な作曲と歌声。気持ち良い一体感のバンドサウンド

 

スピッツファンは往々にして「パブリックイメージとしてのスピッツ」と「ロックバンドあるいはパンクバンドとしてのスピッツ」のギャップを語りたがってしまうんだが、チェリーを楽しくうたってる人に横から「スピッツのテーマは死のセックスなんですよ、ご存知ですか?」などとのたまってたらそれはもう危ない人なので我々も大人として堪えている。

その時代ごとにエヴァーグリーンな名曲を生み出してきた「国民的なミュージシャン」であることも、しれーっと優しいサウンドのヒット曲に恐ろしいフレーズを忍ばせてくることも、きっと多くの人が知っているところだと思う。

大御所バンドであるにも関わらず、不思議と親近感を抱くような立ち位置にいる不思議なバンドだ。妄想癖に少年の戯言のような歌詞を歌い続けているからなのかもしれないな。お硬いことを言わず、メッセージを力強く表明するようなこともなく、イデオロギーを感じさせるような振る舞いもない。それがイコール「だから素晴らしい」という話じゃない。極個人的だったりミニマルな箱庭的な世界観の中で綴られる歓び、孤独、別離、君とのおぼろげな距離や妄想じみた言葉遊び。スケールなんか全然デカくない。そういう控えめにけれど楽しげに音楽を奏で続ける姿勢が、スピッツらしさだと思う。

こんなに長期間第一線にいるバンドなのに偉大な大物バンドって感じじゃなくて「俺だけのスピッツ」みたいなのをずっと大事に抱きしめてしまうんだよな。すっげぇ話が合う中学時代の友人みたいな感じ。スピッツを聞くときおれは中学生。

 

自分語りと絡めたスピッツ語り、いくらでもできそうなんだがひとまず気持ちは落ち着いたのでここらへんで終わります。

 

この記事を書くついでにスピッツのこれまでのアルバムぜんぶ聞き直したので、全作レビュー記事も書きました。それは②で。

 

 

 

 

残照へのまなざし軽く『ビギナーズラック』

 

ビギナーズラック

ビギナーズラック

 

 

歌集「ビギナーズラック」の感想をちらほらと。

作者の阿波野巧也氏は1993年生まれということでかなり若い歌人さん。自分が92年生まれなのでほぼ同年代で、そういう意味でも興味深かった。

 

印象としては、ポップで読みやすい歌集。
スナップ写真的というか、SNSに何気なくいい感じの写真をあげていくアカウントのタイムラインをつらつらと眺めているような感覚。

もの言いたげな風景が切り取られ、そこにほんのりと書き手の感情が乗っていく。

前の更新で紹介した「タルト・タタンと炭酸水」と連続して読んだことになるのだけれど、風景描写もどこか切り取り方が違っているように感じられて面白かった。

「ビギナーズラック」のほうがどこか無機質な感覚。けどそれは生き物の存在や感情に左右されない、ある種の永遠性を宿しているような虚無感がにじんでいる歌が印象に残った。

 

例えば個人的に好きな一首を引くと

 

町じゅうのマンションが持つベランダの、ベランダが生んでいく平行

 

それはもう、単なる事実なのだけど、そう切り取られるとまるでこの世界の隠されたシステムを見つけてしまったようなハッとする感覚がある。ちょっと恐ろしくなってしまうほどに。

そりゃそうなんだよな、ななめになっているわけはない。すべては平行だ。けれど改めてそれを突き付けられると、この世界の違和感のようなものに気づかされてしまって、ベランダから引かれた補助線が見えるようになって、そしたらもう戻れない。

世界の見方を変えてしまう一首だと思う。

この一首から個人的の浮かぶのは無機質な高層マンションのベランダ群なのだけれど、でも歌集を通じてこの一首に出会ったとき、また違う印象になるはずだ。学生街のきっと雑多なベランダなんだろうな。けれどピシッとそろっているベランダ。それが良いとも悪いとも言わない、無感情なんだけれど無感動ではない。言語化が難しい・・・でもとても好きな一首。

 

フードコートはほぼ家族連れ、この中の誰かが罪人でもかまわない

 

この「誰かが罪人でもかまわない」というフレーズの鋭利な感覚。一発で思考を持っていかれてしまうような衝撃がある。

大勢の人間がいる空間に対しての感情が複雑に、でも温度感だけはストレートに伝わってくる気がする。人類が安心を得る為に営んでいる空間、そしてシステムそのものの俯瞰のようでもある。ごくごく個人的な主人公目線の、ちょっとだけアイロニカルな物言いのようにも感じる。

これだけ人間がいるなら、悪いヤツのひとりやふたり、いるだろう。けれど、これほどの人間を前に凶行に及ぶことも、まぁないだろう。それって不安だろうか。安心だろうか。

我々はどれだけ、名前も知らないだれかを信じられるだろうか。
いや、名前を知っていたとして。

そんな思考がぐーるぐるとやってきて、絡めとられていく。

 

 

 

でもこういう歌ばかりではなくて、大学生のモラトリアム感だったり豊かな感情がパッケージされた、等身大の歌も数多い。 

あとがきなどでも触れられているが、まぁ読めばかなりわかりやすく描写されている。

作者の大学時代と、その時代に過ごした京都の町と、親しい時間を過ごしていた女の子。それら青春のにおいが色濃く、また断片的ではあるが物語として再構築されていくラフスケッチ。

 

きみの瞼がきみを閉ざしているあいだひっそりと木立になっていく

 

「きみの瞼がきみを閉ざしている」という言い回しのオシャレ感。
「木立になっていく」の、できるだけ密かに、けれどそばに佇もうという想いの発露。モロにぶっ刺さった1首。

 

すれ違うときの鼻歌をぼくはもらう さらに音楽は鳴り続ける

 

なんて暖かな光景だろうな。鼻歌をもらうといういたずらめいた遊びから飛躍して、「さらに音楽は鳴り続ける」のフレーズて、ひょいっと軽やかに高次元で跳躍するような感覚。

きっとそうやって他愛もないことの連続で生活や音楽が巡っていく。

 

きみの書くきみの名前は書き順がすこしちがっている秋の花

 

「きみ」のリアリティよ。秋の花とリンクする名前とはなんだろうなとふにゃふにゃ考え込んでしまううちに、自分の名前の書き順を間違えてしまっていることの人間としてのリアリティある欠陥、そのキュートな感覚。

 

時間は常に置き換えられてゆくけれど引くだけで楽しいはずれくじ

 

時間は置き換えられていく。可能性ある未来だった「明日」もすぐに無益でくだらない一日へと変わっていく。モラトリアム的な感覚でもあり、それはもう人生の本質なのかもしれないとも思う。この残照感。

日々をくじ引きとしたら、それはもうハズレくじの割合がかなり高いんだろうな。でもくじ引きって「引くだけで楽しい」ということもまた本質。もしかしたら。次はなにか変わるかも。そうやって今日も今日がはずれくじになっていく。なんだか愛おしくなる一首だと思う。残照をゆっくり見送るような眼差しがたまらない。

 

奪ってくれ ぼくの光や音や火が、身体があなたになってくれ

 

これは特に抒情的なフレーズが差し込まれているなぁ。「ぼく」が「あなた」に受け渡されていく、強い祈りを伴う身体感覚にビリビリと揺さぶられてしまう。

 

対照的に、書き手の表情を伺えない歌もある。しかしこのありふれた風景の中で、あえてそこに視線を注ぐときの感情はゆっくりとこちらに染み込んでくる。

 

街灯がしっかり地面を白ませてだれもならんでいないバス停

 

ならぶための空間にだれもいないことの些細な違和感。 この切れ味。

スマホで気楽に取る写真にもセンスはあらわれる。同じように31字の詩で空間や物質を描写するときにもセンスは間違いなく現れるし、この作品はひたすらにそのうまさというかズルさを感じる。こんなにエモく「今」を描くなんて、それは好きになるでしょう。

 

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そんな感じで大学時代の美しい思い出たちや、日常のワンシーンを切り取っていく。

感情を強く出すことはあまりなく、基本的には素朴な口調だと思う。だからわりと感情移入しながら浸ってサクサク読める。サクサク読めるし、何度も読み返す。一首一首、切り取られる画面や感情がとても鮮やかなのだ。いい匂いをもう一度かぎたくなるように、ページをいったりきたり彷徨って、いい読書ができたなと感じることができた。

  

 

 

斉藤斎藤氏が寄稿している内容で、作者がSNS世代であることに触れている。自分自身がそれに近い歳であることもあり、ひとつの世代論的にも面白かった。
ともすれば脱力的な無作為感の中に緻密な練り込みがされている事も理解できた。

やっぱりまだまだ歌集を読みなれていないので、こういった識者のリードがないことにはうまく読み砕けなかったりする場面も多い。ありがたい。

 

読むと少しだけ視線が上がって気持ちが軽くなってくる歌集。通勤カバンにしばらく突っ込んでおきたいな。先程も書いたが軽やかな読み心地なので読み返しやすいのが嬉しい限り。

 

 

サイドミラーに映る青空 を描くための『タルト・タタンと炭酸水』

また歌集を読んだ備忘録。

というか最近このブログが結構な割合で歌集の紹介になってきましたね。ツイッターだと漫画とかゲームの話題しかほぼしてないしな・・・。

 

タルト・タタンと炭酸水 新鋭短歌シリーズ

タルト・タタンと炭酸水 新鋭短歌シリーズ

 

 

 

今回は竹内亮さんの「タルト・タタンと炭酸水」です。

サウナ後の休憩室でするすると数時間で読むことができた。軽やかな歌集でした。でも跡引くほんのりとした苦味も感じる。

 

表紙のイラストのようにしっとりとしたおしゃれ感があり、どこか切ない水彩のような風景描写が目立つ内容。

しずかにスケッチしていくような穏やかな視線が世界に注がれているのを感じられる作風。非常に素朴で、ときに神の視点のような「ここを見るか」という強烈な観察眼も感じられてドキドキしてしまう。

感情を思いきり込めたような作品は少ないけれど「この世界のなかでそこに目を向ける主人公」という像のキャラクター性のようなものは伝わってくる。感情をうたわない歌だからこそ感覚的に察知できる。

 

春の雨は草の匂いを漂わせ先に傘を閉じたのは君

 

先に傘を、閉じたのは君。なにか始まるんだろうか。

ここは「先に傘を」が6字で明らかにテンポを違えている。欠落の違和感が、ついつい想像を膨らませてしまう。

だから、ほのぼのとした口調で切り取られていく風景写真のようなのに、どこかで虚無感やつめたい感情が差し込まれているようにも思える瞬間が歌集のなかにアクセント的に配置されている、・・・気がする。

 

気に入った歌をいくつか紹介。

 

川べりに止めた個人タクシーのサイドミラーに映る青空

 

 非常に限定的な描写がされている、道をゆく主人公がみつけた小さな小さな青空をスケッチしたような一首。

川べりの、個人タクシーの、サイドミラーの、なかに映る青空。

とても具体的であるため、そこを描き切り取ることで一瞬の軌跡を永遠化したような魅力がある。きっとどこにでもあるもの。けれど誰も気づけていない美しいもの。それが次の瞬間には無くなっているんだろう。

こういう限定的な描写で救い上げることで、刹那の宝物のような質感が増していとおしくなってくるんだよな。本人に中でこの風景はほとんど固有名詞化してそうな感じというか。

 

 ジーンズの裾に運ばれついてきたあの日の砂を床におとして

 

短歌という31字を使う詩は、ものを描写するには結構オマケを付けられる詩形態だと思っていて、そのオマケの部分であそべるのも魅力だと思う。(そのぶんより研ぎ澄まされる句なんかは緊張感があるように個人的には感じている)

 この一首も「そこを見つけるか」という視点の面白さかな。やや回りくどい言い回しもファニーでかわいらしい感じ。

ジーンズの裾にたまった砂を払うという風景。「あの日の砂」と特定できるということは、きっと特徴ある砂なんだろう。砂浜に行った思い出が蘇ってきたのかもしれない。その砂は「運ばれついてきた」のだから、その砂を眺める主人公のナイーブな感情も読み取れる。でもそれを床に落とすのだ。そうしてあの日の砂はただの砂となって、そしてホコリのように捨てられて、去っていく。

 

終電の一駅ごとに目を開けてまた眠りゆく黒髪静か

 

今度は電車内の風景に移る。このときの静かな空気、すごくわかるなぁ・・・。みんなうつむいて目を閉じて、時間がすぎるだけの一日の終わり。疲労感が支配する体に、電車の揺らぎが心地よい。なんかすごくヒーリング効果のある風景だと思う。各々の一日の終わり。

 

雲が白い夏の初めの風の朝きみ柔らかな瞼を開く

 

「雲が」「白い」「夏の」「初めの」と、短いセンテンスを連続させるリズム感が好き。そういう歌は結構この本の中に出てくるけど中でも一番美しいと思う。「瞼を開く」のどこか物体を眺めているかのような視点、フェチズムも感じる帰着が印象的。

「風の朝」「きみ」「やわらかな瞼」の繋がりって日本語としてのつながりがとても弱いのに、スッとイメージがつながっていくのも好き。

目が覚めた。というより、まるで導かれたような爽やかな覚醒が眩しい。

 

 

そんな感じで。

安定の書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズでした。このシリーズついつい買ってしまうよな。

喉元ではじけていく炭酸水のイメージそのまま、眩しくて心おちつく言葉の世界を堪能しました。

ああ あの青空を忘れたくない / 映画の『滑走路』と歌集の『滑走路』

11/28新宿、
映画「滑走路」の上映&トークイベントに行ってきました。

普通に映画見に行ったらたまたまその劇場でトークイベントがあるってんで、なんとか当日券もギリありましたので見ることが出来ました。

 

kassouro-movie.jp

 

 この映画、珍しいのはもとが歌集であるというところ。

映画のもとになっている 歌集「滑走路」は自分もかなり記憶に残っている本でした。短歌にハマりだした当初かなり売れていた本で手に取ることも当然。

しばしば取り上げられるのは非正規の苦しみやいじめのトラウマといったネガティブで社会派な側面。しかし実際読んでみると、たしかにそのエッセンスは強いけれど、それよりもむしろその中であがくための自分を鼓舞するための、自由に心を羽ばたかせるための作歌の道程が感じ取れる。それでいて親しみやすくかなり読みやすい。短歌を読みなれていなくてするする読める心地よさがある作品。

ままならない社会や一度はくじけてしまった自分の人生というものへの、カウンター精神がベストセラーとして人々の胸を打ったのかと感じる。

 

まぁ、歌集の感想(だいぶ今更だが)は、あとで書くとして
まずは映画の話を進めておくとする。

 

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テアトル新宿、はじめて行った!

他の好きな映画でもこの劇場はしばしば聖地・・・というか記念すべき劇場のような扱い方をされているような気がして、今年上京してきた元地方民からすると下北沢トリウッドと並んで「訪れるだけで感動する映画館」だ。なおトリウッドもまだ行けてません。

 

さて、映画だが歌集を原作としつつもかなり大胆なアレンジが加わっている。というか完全オリジナルストーリーですねこれ。
大きく3つのフェイズに分かれ10代「中学生編」20代「若手官僚編」30代「夫婦編」に分かれているが、主人公も環境もバラバラ。シャッフルするように3つの物語が断片的に同時進行していく。

 

はてなぜ3つの物語が別々に進むのか。といった所はもちろんこの映画の根底に関わるところなのだが、お察しの通りすべてつながりがあり、シナリオのなかでお互いの人生が干渉しあい主人公たちが呼応するようにそれぞれのクライマックスへと向かっていく。

ある意味では叙述トリック的な演出がされるので、とくに名前に関して、これから見る人は注目すると早めに発見があるかもしれない。

 

 

で、好きに書きたいのでここからネタバレありになるのでご注意。

 

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構造を理解したうえでもう一度見返したい映画だと思う。

なにか仕掛けがあるだろうとは思いつつ、最初は30代の切り絵作家の翠さんのエピソードだけ非常に浮いているように感じていた。

各年代ごとに悩みや苦しみが描かれる本作、30代は30代ならではじんわりとした不安感やコミュニケーション不全感のような嫌~な空気が中盤まで漂っていた。

でもこれがどうやって中学生編のいじめや日々の閉塞感、官僚編の多忙極まる仕事のストレスや過去のトラウマや「自死」と結びついていくのかわからなかった。

 

しかし本作、一番に光を見せてくれるのは間違いなくこの30代編だ。

水川あさみさん、あまり意識してなかった女優だけどめっちゃいい演技するな・・・。

滑走路というタイトルからイメージされる飛び立つことの決意やエネルギーの面は、この翠さんの物語にかなり詰まっていると思う。

 

旦那さんの「翠はどうしたい?」という優しい声色で放たれるやさしい言葉が、映画の展開の中でどんどん響き方がかわってくるのも面白かった。それについて翠があきらかに不信を募らせていくのが言葉じゃない部分でこちらに伝わってくるし、あの張り手が飛ぶ緊迫のシーンなんかも、あきらかにこの瞬間に壊れてしまった関係性のはかなさのようなものが感じられてグッとくる。

30代編では夫婦間の問題がおきているシーンに何度が地震が起きる。これも面白い。まるで夫婦の心情を表すように揺れる。映画館の音響で聞くとリアルに地震きたようでビビった。でも作中のふたりはあまり動じるような様子もない。

後に明らかになるがこの30代編は実は現代より未来の話なので、この先震度3~4くらいではみんな動じないような地震多発時代に突入しているのかもしれない。マジ?

夫婦があきらかに壊れていくなかで決定的なセリフ「貴方の子だから堕ろしたの」はあまりにも強すぎる呪いの言葉だった。セリフの殺傷能力だけではなく演技も、スクリーンから並々ならぬ圧が放たれており、個人的には本作トップクラスの名場面だったと思う。

 

翠がした決断は、自分の将来もそうだがなによりはまず子供の存在だろう。この未来を選択したという事実が前を向かせるだけの力を観客に与えてくれているように思う。

 

そして子供というキーワードから20代官僚編へと接続されていく。

また中学生編の中盤、「わたしの名前を呼んで。下の名前で。」という思い出すだけで胸あつくなる切ないワンシーンだが、ようやく「ああ、やっぱり全部つながってる!」と気持ちよい種明かしを味わえる。セリフこれであってたっけ・・・。

(この前にもきっと気づける伏線はあったと思うけども・・・)

 

ところで、居間のソファでの性行為のシーンはやたらめったらに生々しく無感情で、監督のこだわりとフェチを感じましたがいかがでしょうか。 

 

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20代若手官僚編。個人的にも性別、年齢が近いこともあり一番シンパシーを覚えながら見ることができた時間軸だ。

主人公の鷹野というのは徐々に明らかになるが中学時代のいじめをトラウマとしてもっており、それから逃れるためにも官僚として華々しいキャリアをつかんでいる25歳の青年だ。しかし過去のトラウマに追いかけ続けた彼の精神はもう限界を迎えていた。そして彼は、とある同い年の青年の自死について独自に調べを進めていく。

 

このエピソードの中ではやはり名シーンと言えば、中学時代の学級院長の母親との場面だろう。先にも呪いの言葉という表現を使った、ここでも呪いの言葉は出てくる。それが鷹野がかつての自分の行いを詫び、許されたいために訪れたのだと母親が見抜いたあとのセリフだ。

 

「忘れずに、あなたは生きるの」

「隼介にかわって、あなたは結婚して、子供を授かって、その子を宝物みたいに育てて、命がけで守りなさい」

 

子をうしなった母親は「忘れるな、一生背負って生きていけ」という。それは非難ではなく、鷹野がちゃんと自分の人生を歩めるように絞り出した魂からの言葉だろう。呪いともいえるほどの強度で鷹野の人生に打ち込んだ軸だ。鷹野のこれからの未来をさししめす言葉にもなるのだろう。「のろい」と「まじない」が同じ漢字であらわされるように。

この言葉を受け取り鷹野編の最終場面では、返すことができなかった教科書を見つめ、ようやくボロボロと涙を流すことができたという帰結が描かれる。子供のように背中をまるめ、情けないほどに感情をあらわにするその姿こそが、この物語で鷹野という男がつかんだ贖罪の煉獄だ。

 

自死」というテーマは原作著者の来歴からしても避けては通れない。

この作品で特にこの要素が強く表現されたのが20代のこの官僚編だった。

この映画は自死を非難もせず、賛美もしない。ひとりの人間が自分の意志でえらんだ人生の終着について、我々は「なぜ自死を選んだのだろう」と原因を探ろうとしがちだが、それも推測に過ぎない。感情を揺さぶられ、ときに引きずり込まれそうになる「残された人々」のドラマを描いていく。

謎は謎のまま。

25歳に命を絶った彼の、まさにその死の間際どんな人間でなにを考えていたのか、その追及ができる要素は極力省かれている。物語の中でぽっかりと空いた穴のようにその謎はつねに横たわっていて、それが非常にリアルな距離感を感じるのだ。

 

鷹野に関してはこちらのインタビューも、ひも解くヒントになる。

screenonline.jp

 

語られている、「扉の前で泣く」というシーンは中学時代編の「お前が全部悪いんだ!」の叫びとの対比なのかと思ってるんですが、どうだろう・・・。

 

 

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最後、中学生編だ。

いじめの描写も生々しくて目をそむけたくなる痛ましさがある。同時に同級生の女子・天野とのほほえましい交流も、エモーショナルなセリフと演出がさく裂しまくるクライマックスも、本作なかでも特にドラマチックに描かれているフェイズでもある。

このエピソードだけで見るならば、甘酸っぱい青春模様として楽しめるはず。しかし観客はすでに識っているのだ。この主人公の彼が、中学時代のいじめから立ち直ることができず、25歳でこの世を去ってしまう事を。

その未来を知ったうえで見るこの映画のラストシーンは本当に絶品だった。美しさとやるせなさがいっぱいになる中で風景が遠ざかり、主題歌「紙飛行機」がやさしくはじまる。泣いちゃったな・・・(28歳/おとこのこ)

 

 

クラスメートの天野さんがめちゃめちゃピュアな存在感を発揮していて目が離せなかった。苦しい場面で彼女がでてくるとホッとするし。木下渓さんという女優さんらしい。トークイベントで実際に見たけど役を意識して水色のワンピースを着てきていたり非常に好印象だった。かわいいしな(台無し)

 

www.nikkansports.com

 

「なぜ・・・なぜあの美しい中学時代を経ても人生は重く苦しいのだろう・・・」という感覚にズッシリととらわれてしまうのだけれど、まぁ思い出は美しくあり続けることがその存在意義なので。

翠が出産を決めたとき、この中学時代の記憶が影響を及ぼしていることは確かで、そういう意味で生命がつながれていくことの意義を深く感じることもできた。

単独でも美しい話が、映画の中での他2編を踏まえるとさらに違う見え方になる、そういう演出が一番効果的に響いていたエピソードでしたね。

 

負の場面でいうなら「お前なんて助けるんじゃなかった」のシーンもとても印象深い。

 

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歌集とパンフ。

サイズも一緒だし、カバーの加工もたぶん一緒。よこに並べることを想定してると思う。しかしパンフのデザインがこれでは片方が海外にいくことに離れ離れになるカップリングのシリアス二次創作同人誌みたいだな・・・????

 

 パンフレットの中で脚本の桑村さんが言及していたののを引用すると、

 

>私は10年以上前に友人が自死してまして。そのときは、自殺するなんて間違っているって思ったんですけど、あることをきっかけに果たして本当にそうなのか、自分で自分の命を絶つほどに追い詰められた人を死んでなお否定することで誰かを傷つけているんじゃないかという考えにいたって(’パンフレット P.23)

 

 

 

この部分ってすごくこの作品の根幹をなしている感覚だよなぁ。

個人的にこの作品のなにが気に入ったかというと、死の質感なんだと思う。近年「自殺」と「自死」の違いなどもときたま論じられたりするけれど、そういった感覚をキャッチしたいのは自分の中にも欲求としてあって、この映画はうまくその輪郭を見せてくれた気がする。

幸いにして自分の身の回りにそういった悲しい出来事はないけれど、報道される自殺者の人数推移とか見ると、とたんに何か途方もない感覚になったりするじゃないですか。でも電車が接触事故で遅延したりするとその裏をあまり考えないようにしつつも「なんでいまやるんだよ」とか言ってしまうじゃないですか。少なくとも自分は。

まぁありふれた感覚ですけど、死と向き合うとき我々は正気ではいられない。この映画を見終えた後、きっと多くの観客が気持ちを置き場所を探すことになる。そしてその作業は現実に自分たちの身近に死が降りかかってきたときのシミュレーションになる。

 

いくつかインタビュー記事を貼りますが、どれも映画の内容をよく救い上げたいいインタビューだと思います。

cinema.u-cs.jp

 

hon-hikidashi.jp

 

それとたまたま参加できたトークイベントの内容なんかはこちらに記事がでていたので貼っておきます。

this.kiji.is

 

トークイベントは30分ほどで、主題歌を歌ったSano ibukiさんが登壇したこともありこのMVの話もおおく触れられていた。こちらも、だれかの存在が時間を輝かせ、そしてどうしようもなく孤独でもあることを表現した見事な映像だと思う。

 

www.youtube.com

 

こちらの歌詞にも、歌集へのリスペクトを感じるようなワード選びがされている。「あなたの読みかけの人生の栞となれたことを」とか。

「紙飛行機」というタイトルも素晴らしいと思う。大きくとおく羽ばたくためには誰かの手を離れる。どうしようもなくひとりで、かよわい紙の羽で風を掴んで。そうしてどこまでいけるのだろう。

映画の内容ともうつくしく響き合っている。

 

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歌集 滑走路

歌集 滑走路

 

 

 

続いてざっくりと歌集「滑走路」について。

読んだのはけっこう前なんですがブログ内で触れていなかったので、このタイミングで。

 

この記事の最初にも書きましたが、内容はさておき、文体としてはめちゃめちゃ読みやすくてキャッチー。口語体が主だし、意味をめちゃめちゃ重ねたりテクニカルな技法繰り出したり実験的な現代短歌というわけでもなく、非常に素直な文体なのもベストセラーになった理由のひとつだと思う。(もちろん、深みがないというわけではなく、取っかかりやすいという意味で)

 

映画との関係性については、うまく映画が作品内に短歌を落とし込んだスタイルだ。改めて歌集を読みかえすと、作中いろんな場面で歌のエッセンスがいかされていたんだと再確認できる。

直接引用されていたような歌をざっと挙げると例えば歌集冒頭を飾る一首、

 

いろいろと書いてあるのだ 看護師のあなたの腕はメモ帳なのだ

 

これは官僚編で。

 

空だって泣きたいときもあるだろう葡萄のような大粒の雨

 これは言うまでもなく、中学時代の美しき思い出の中で。

いま思いかえればあの図書館シーンが、どの場面から接続されたものだったか。空が泣くような大粒の雨が降るのは、映画的に必然だったのだ。

 

 遠くからみてもあなたとわかるのはあなたがあなたしかいないから

 

母ちゃん・・・。

 

遠くにいるきみと握手をするように言葉と言葉交換したり

 握手、あるいは手と手の距離について。

映画においてもかなり慎重に描かれていた「手と手」だが、歌集のなかにもそのまなざしは息づいている。

 

ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼たべる

 

頭を下げて頭を下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく

 

これら牛丼シリーズはほかにもあり、著者の生活に「牛丼」が密接だったことがわかる。現代の食事のあのシステマチックな感覚がよく出てるワードだと思うのだよな。「食べる」の一連の歌は、すごく素直に現代の食の完成が出ている気がして、これがあと10年後20年後にはもしかしたら別の食べ物がこの空気感を担うアイテムに変わっているかも知れない。

 

などなど。

ざっと映画内で拾われた歌を挙げるだけでもなんとなくこの歌集の雰囲気がつかめると思う。美しい青春の日々に、もがきながら生き延びようとする今に、つよくつよく感情が載せられていく。素直な語り口もあれば、まるで心閉ざすように情景を見つめるのみのものもある。

自らを鼓舞するような熱いメッセージがあふれだし、それは日々を戦い抜くためであったり、自己表現としての歌づくりについてだったり、とにもかくにも、歌から著者の生命力のほとばしりを感じる。素直な語り口がそれを加速させている。

 

萩原さんはこの歌集を完成させたあと、出版を待たずして旅立った。

歌から感じられる熱い生命力からはちょっと信じられないが、それでもその現実こそがこの歌集の存在感やメッセージ性を圧倒的に補強してしまった。

「歌集をこんな事言ってても死ぬことを選んでしまうんだ」という虚脱感が、全く無いわけではない。素直な感覚として。

でも、この歌集ではたびたび歌について「きみ」に「社会」に認めてもらうための手段であると、歌われてきた。

挫けそうな心をなぐりつけるような勢いで自らを鼓舞した言葉。
耐え難い苦しみのなかしばしの癒やしと救いをもたらした、かつての思い出。
恥ずかしいほどまっすぐな恋心。

それらはすべて歌という、彼がとびきり輝ける世界で、彼が練りに練って磨き上げた魂からの言葉だ。泥まみれで血反吐はきながらでも「こうありたい」を追求した凄みと情熱を感じる歌たちだと改めて思う。

 

最後に個人的に好きな歌を紹介。

 

かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む

 

いつか手が触れると信じつつ いつも眼が捉えたる光源のあり

 

とても素直なんだけれど、遠く遠くをみつめるような黄昏感を感じさせる、本当にピュアな歌だと思う。

 自分は短歌にハマって日は浅いのだけれど、この「滑走路」は入門としても読みやすいし、歌に感情をいかに託すかを突きつけられることで一層、言葉を味わい愛せるような、豊かな感覚を与えてくれる本だなと、思う。

 

タイトルがそもそも、飛翔する「飛行機」でも、操縦する「パイロット」でもなく、場としての「滑走路」と付けられていることの俯瞰性。そこにもメッセージ性を感じる。フェンス越しにただ滑走路を眺めているような遠さもあるし、飛び立ちたいという願いも強く感じる。

 

いい本です。そしていい映画です。
生と死を取り扱う作品は数あれど、詩を落とし込んでいく手法はなかなかに味わい深かった。感動できるうえにトリッキーで、まぁ救いがないといえばないんだけど、まちがいなく心に痕をのこしていく作品。痕跡をのこされたくて、音楽も漫画も映画も、物語というものを渡り歩いているという感覚があるので、素晴らしい出会いでした。

 

 

 

小説 滑走路

小説 滑走路

  • 作者:藤石 波矢
  • 発売日: 2020/09/24
  • メディア: 単行本
 

 

 

群青は春から東から 『青春迷宮』

原神しかやってない人生になってきた。クレーちゃんの重撃で爆ダメ叩き出すと最高に気持ちェェんじゃ。

 

とは言えさすがになにかアウトプットしたくなったので更新。イラスト集のような歌集のような絵本のようなこちらの一冊「青春迷宮」。

 

 

 

青春迷宮 (KITORA)

青春迷宮 (KITORA)

  • 作者:伊波 真人
  • 発売日: 2020/10/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

テンションあがりすぎて変なことをほざいたときのツイッター

マジですべての中学校の図書室においてほしいくらいに純度が高い本だと想う。

 

 

歌集というのは、短歌を納めた本です。31文字の詩です。

イラストは丸紅茜さんはコミティア系の同人だったり一般書のカバーなどで見かけることも多い。めちゃめちゃ好きな絵師さんです。「おくたまのまじょ」、待ってます。

そして短歌は伊波真人さん。歌集「ナイトフライト」の人。ムック本「ねむらない樹」でよくお見掛けする名前だ。

本作はこの二人のクリエイターがそれぞれ50の歌とイラストを描きおろし、それぞれに共鳴しているさまを楽しめる一冊。

 

 

通常、歌集を読むと31文字の文字の連なり以上の情報は基本的にはありません。その中で描かれる情景や感情に思いをはせたり、比喩の跳躍、口にしたときのなめらかさやドキリとするテンポ感またはその破調、摩訶不思議な言葉の接続や一瞬を切り取る刹那の結晶それらをしげしげと眺めては「ふ~む、ようわからんけどピカピカひかっとる、ええやんけ」と脳内お気に入りボックスにしまっていくような作業が待っているわけです(オタク早口) 。

しかし本作はひとつの物語を描くように進行していく。そのことでグッと読み解きやすく、普遍的な青春のピースとしての像が歌からイメージしやすい。短歌の入門としてもかなりとっつきやすいと思う。

キャラクター性もハッキリとしている。断片的に小説の一節を読んでいるような歌たちはどれもほどよく抽象性で、ほどよく限定的で、そのゆらぎのなかに「私だけの日々」の愛おしさややるせなさがパッケージされている。

キーワードとして「星」「学校生活」といった要素を全体の裏テーマとしておおく詠み込まれており、全50首の作品としてテーマが確立されているようにおもう。

加えてやはりイラストの存在が非常に大きい。やっぱ、丸紅先生のイラストは味わいっ深い。思春期の、あの日々の、君との距離も世界との境界もあいまいで鋭敏で、沈み込んではときおり水の底から光る言葉たち。絵とイラストがすばらしく共鳴している。

歌も、男女どちらの歌かわかることで(またはどちらにも共通するような歌であることで)より、感情が交差している感覚を味わえるつくり。

交差しているにも関わらず、伝えられない言葉をおたがいに秘めているからこそ、悶々とするし美しいのだが……。 

 

 

いくつか、好きな歌を抜粋する。

校庭にくじらのように横たわる校舎の影が午後を飲み込む

そこを歌にするか、という感触のすぐ読んだあと思い出した。そうだ、夏の午後になると太陽が校舎の裏にまわり、日が沈むにつれてどんどんと校庭の影がおおきくなっていったこと。穴が次第に大きくなっていくような、飲み込まれてしまうような青黒い影を、授業中に眺めていたのを、10年以上前のあの視覚情報が一気に脳みそに蘇った。

校舎の影が校庭に広がっている。ただそれだけの歌なのに、触れがたいなにかに触れてしまったような、記憶の扉をふいにあけてしまったようなドキドキがある。高揚感ではなくて畏れのような感覚の。

この歌にはっきりとした感情は載せられていないけれど、読みての記憶や体験にオーバーラップすることで普遍的な、しかしそれを発見したありふれた僕らにとっては特別な発見だったを思い出させてくれる。気づいたときには発見したような心地だったんだ、校庭を飲み込んでいく大きな影は。そこにいろんな想像をあの影に投じていたような気がする。影送りとか、影の深い大地に溶けるように紛れる忍者とか、ムカつくやつの顔だとか。

 

同じような視線として

数学の記号が魚に見えてきて教室という海へと放つ

本気で授業の内容が頭にはいってこなかったとき、黒板に書かれた記号をなんの理解も出来ないままノートに書き写していた。そういう時こんな感覚になっていたように思う。まるで生き物みたいに、次から次へと姿を変えていく記号たち。不思議に生き生きとしだす薄水色の方眼ノートの黒線たち。

完全に勘違い。記号は記号だし姿はかわらない。寝ぼけながら板書をとっているからそんなことになる。でも想像を膨らませて、記号を魚に変えて、教室に海にして、そこに放つ。押さえつけられた感情がしれずしれずに出口を探すような、そういう願いも込められていたのかもしれない。

 

職業の適性検査の結果では灯台守がぼくの天職

 

どんな嵐の日にもそこにあり続ける。だれかを待ち、誰かを送り出していく。変わりたくないどこにも行きたくない、そんな心の声が指し示してしまった「灯台守」という結果。そんなわけはない。いつの時代の職業検査だろう。

調べたが日本では2006年を最後に、有人の灯台は消滅したようだ。(むしろそんな最近まで「灯台守」っていたんだ

でもこの感覚、当時の自分もあったと思う。

漠然とした未来への不安、いまのままずっと在りたい。置いてけぼりを食らってもいいと思うほどに変わりたくなかった。

願わくば誰かそばにいてくれたり、だれかの帰りを待ったりしていたんだけど、そんなことはもちろん言葉には出来なかった。消極的すぎる。でも本当のことだったと思うのだ。

 

冬空をともに仰いだあなたにはみえない星を胸にともして

 

奇跡のような時間があったとして、けれどすべてをさらけ出す勇気はなかったのだと思う。この歌はこの歌集のストーリーを読み解く中でも重要なピースだけれど、この一首だけ取り出してもきらきらしているように思う。

「ともに仰いだあなたにも」ではないのもポイント。大切な夜があった。それをともにするあなたの存在があった。でも、だからこそなんだろう。一時、記憶を共有できるだけの距離感だからこそ、改めてはかられていく言葉や感情。

ともに仰いだあなた「には」見えない星、それはあなたが特別だからこそ隠した思いの強さを感じさせる構造だ。

 

うつむいて僕はみているもう履かない上履きの甲には落ちた三日月

クライマックスの一首。うつむいて、あなたの顔を見れなくて、上履きのつまさきのラバーのかたちがまるで三日月みたいで、そうして春は忘れられない季節になっていく。

 

などなど。

この歌集は、完全に忘れ去っていた学校生活のさりげないワンシーンや、授業中にぼんやりと感じた色のない感情をみずみずしく思い出させてくれる。

学生じゃなくてしばらく経ったからこそ懐かしく思う部分もあるけれど、

できればリアルタイムで学生の人にも「同じようなこと考えて、それを短歌にしている人がいるんだ」という感覚を味わってもらえたら、きっと楽しいんじゃないかと思う。

 

 

 

 

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そして本としてのデザイン、レイアウトやタイポグラフ的な面も技がきいている。ようは短歌がただ書かれているのですなくオッシャレに遊び心が加えられ、本をめくるたびに新鮮な誌面を味わえるということ。

歌の内容とイラストはもちろん、このデザインによっても感情は増幅されていく。

例えばグルグルと感情がめぐる悶々とした歌では、言葉はまるで出口をなくしたように、あるいは塞ぐように「私」を取り囲む。

さみしく言葉が反響するような場面では、その通りにいくつもの言葉が連なる。繰り返すことで本来の意味が失われていくようなデザインがさらに切なさを加速させていく。

限りある時間を惜しむ歌では、その歌そのものが砂時計となってこぼれ落ちていく。

 

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プロローグとして春から始まり、季節を移りそしてまた春に至る物語。

「青春迷宮」と名付けられたこの本は、行ったり来たりの感情と関係に終始甘酸っぱい気持ちを味わわせてくれる。そして永遠にこの時間が繰り返されているかのような、停止した青春を追体験させられているような感覚になる。

まるでこの世界は、名前のないぼくときみの世界を、キャストとシアターを入れ替えながら何度でも上演していく舞台演劇のようだ、と。

こんな感覚に取りつかれたらまさに迷宮。もしかしたら自分もこの舞台の一員だったのでは……?

 

 

 

いや、そんなことはない。考え直しそう思い出そう。おれにこんなキラキラした時間なんてなかった。教室の片隅で電撃文庫とMF文庫Jを読んでるだけの眼鏡だった。

でもそれでもよいのだ。なんのドラマもありはしないが群青の日々は10代の僕にもあり、あの教室で誰かがこんな「青春迷宮」に迷い込んでいたのかもしれない。その気配や匂いは、感じることができていた。

 

なんだか久しぶりあの教室の、しけった6月のホコリ臭さを思い出してしまったな。

 

そしてこれを読んで「なんかよくわからんけど良いな、自分にも短歌作れそう」ってなったらこの作品は勝ったと思う。自分もこの本を読んで1首作ってみた。

 

 とこしえのメタファーとして十代の群青は春から東から