「正直どうでもいい?」

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防犯カメラは知らないだろう『千種創一歌集 砂丘律』

砂丘律
砂丘律
posted with amazlet at 20.03.12
千種創一 青磁社 (2015-12-10) 売り上げランキング: 61,428

 

最近読み終えた歌集の感想です。

 

転職した会社の研修中がめちゃめちゃ暇してて、スマホと着替えしかないくらいの状態だったのでヨシと思い外出。初めての街の初めての書店へ勢いで向かったら棚に刺さっていた。

もともとツイッターでこの歌集に入っているとある歌を見かけて以来、気になっていた本。

「こんな短歌を詠みたい人生だったな」千種創一さんの歌集『砂丘律』がかっこよくて泣ける

プレミアついてる本だという認識だったのでちょっとうれしくなって購入。奥付を見ると令和元年6月30日で4刷目。歌集で4刷目というのはなかなか凄いな。品薄も解消されたか。

本作は著者が中東在住ということでそこでの生活や政治的な混乱、そして戦果に日常がおかされていくさなかの緊張感ある歌も収められた歌集。

砂丘律

 

装丁もとてもおもしろいです。なに製本って言うんだろうこれは。 強度は問題ないんですが本の背にあたる部分がかなり荒い網目の生地になっていてかなり異様な見た目になります。本文もあえてザラリとしたグレーの強い紙が使われていて、独特の風合いを出しています。

 

 

 

さきに紹介したとおり中東エッセンスがふんだんに盛り込まれており、一冊通じてまるで旅行記を読んでいるような、知らない世界に連れて行ってくれるような感覚にさせてくれる歌集。 広場の人々、テレビニュース、カフェテラスの雑踏、戦況を報じる新聞・・・。

血なまぐさいシーンを描写した歌もあるが、語り口としては非常に写実的に、あるがままを素直に切り取っていくような感覚だ。まるでスナップを次々並べていくかのごとく、平穏も非日常も等しくシャッターを切っていく。

骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな (135頁)

前後の歌をよむと、これは戦火から逃れるために必死に砂漠を進んでいるときの歌だと思う。生きるか死ぬかという圧倒的なリアルの中で、この歌の醸しだす静けさよ。 あえて歌としてのテンポ感を殺すことで、ただ呆然の目の前の骨を見つめているその悲しみであったり動揺であったりあるいは回りきらない思考のそのまま表現したかのような凄みを感じるのだ。

この歌集で個人的にポイントだと思うのが、過剰に感情を歌にのせないスタイルにあるのではと思う。描写される光景は非常に生々しいが、それを眺めている主人公の心模様は、さほど重要な要素として捉えられていない感覚がする。

巻末のあとがきで「事実ではなく真実を詠おうと努めた」と述べられているのはそういった視点のことだろうか。

巣のような第五ロータリー離れつつ月下、小声で思想をさらす(111頁)

偏見として中東や戦争というキーワードでやや警戒するところではあるがこの歌集で押し付けがましい思想がブチまけられていたりとは一切ない。むしろこんな歌も、遠い異国でだれかと価値観を晒しあえる、まるで秘密の共有のような甘美さが感じられてスゲェと思う。

思想感が強い歌集の中では「思想をさらす」のフレーズで切れ味を作る構成のこんな短歌は成り立たないと思うんだよな。かっこいい。

君はあくまで塔として空港が草原になるまでを見ている(14頁)

作品から感じられる作者のちょっと無頼派な空気感と、中東で過ごしている日々や空間のエッセンスが共鳴しあっていて、なんとも言えないノスタルジーが漂ってくるのだ。

けれどそのノスタルジーを少しずつ塗りつぶしていく色。異国のニュースキャスターの冷たい顔が、兵器が、名前のしらない誰かの死が、戦争が来る。

明らかに不穏な空気が忍び寄ってくることにじわりじわりと精神を乱されていく感覚に陥るのは、淡々とした描写を続けていくこの歌集ならではなのかもしれない。中東在住ならではのリアリティがバッチリ生きている。

 

 

断片的ではあるが作者が日本を発つまでのエピソードや、そのときに親しい女性、おそらく恋人と、離れることを選んだことを伺われる章もある。

さきほど「あまり感情を見せない語り口がクール」みたいな話をしたばかりだがここではむしろ「君」への思いがメチャメチャストレートに歌に表れている。

Marlboroの薫りごと君を抱いている、草原、というには狭い部屋(70頁) 食卓へ君の涙のおちるたび草原は蘇えりまた枯れる(62頁)

君と「草原」をつなげるような歌が散見されるのもなにか意図があるんだろう。なにもない自然の豊かさみたいな憧れが根源にあるような。ほかにも果樹園であったり、ブドウであったり、なにか緑やみずみずしいイメージを「君」に寄せようとしながらも挫折してしまう、苦悩が垣間見えてくるような一連の流れがあるのだ。

紫陽花の こころにけもの道がありそこでいまだに君をみかける(60頁)

めちゃめちゃ好きな歌ですね、これ。 紫陽花の、・・・日本での君との日々を思い出すトリガーとなるのが、紫陽花なんだよな。雨。砂漠の街からずいぶん遠い日々の記憶。ずっと忘れられないという感じではなく、ふとしたときに君を思い出してしまうんだなぁ、くらいの温度感。女々しくてリアルでとても愛おしくなる。

段ボールを積む、すこしずつずれる、去年の夏の約束を破る(89頁)

これはどちらかというと感情が見えない淡々とした口調なのだけれど、こわばった表情や心が冷たくなっている様子が自然と浮かび上がってくるような切なさ爆発ショートソングじゃねーの。

そして極め付きの「君」はこれ。

みることは魅せられること 君の脚は汗をまとったしずかな光(55頁)

この力強い言い回しがいいですね。 「みることは魅せられること!」「しずかな光!」とめちゃめちゃ言い切ってくる。無条件でいい。信じられるものは汗をかいてる君の脚なんです。 取り上げている作品はどれも好きなのだけれど、作者の信仰心が塊になってこちらにぶつかってくるような気迫があってこの歌は特にいい。

戦争で荒れ果てた風景や、だれかの死といった痛ましい部分にもしっかりと目を向けつつも「君」と過ごした日々を美しい思い出としてプレイバックしているような二重構造。

なかでも連作「ザ・ナイト・ビフォア」は、歌集通じてひとつのカタルシスを迎えているような作品。君への優しい思い、甘い記憶、青春期のまばゆさ、忍び寄る不安の「前夜感」。ゾワゾワしてたまらない。歌集のなかでも一際、語り手の感情が痛いほど織り込まれていると思う。メッセージ性もストーリー性も強くて、歌集の代表的な連作。

線香のような松の葉ふみしめて君と海まで最後を歩く(196頁)

中東へのイメージを強めるワードも、日本への郷愁を誘うワードも、どちらも抜群のセンスなんだよな。シーンの切り取り方が巧みで、とあるアイテムひとつで一気に世界観を構築出来てしまう。「線香のような松の葉」というのがあまりにも日本の、もう終わってしまった季節にぴったりの表現。

そんな感傷まみれの歌がときおり混じり、そして歌集の最後の章ではそれ一色に染まっていくのが1冊の構造として素敵。異国情緒も命を脅かすような非日常も、それを上回る感傷で蓋をされているようだ。

もう握り返してくれない掌を握り、握ったまま死ねればよかった(236頁) あっビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の(252頁)

物語終盤にそのキャラクターの信条や人生観が明かされたときの「ああ、もうこれを描いてしまったら終わってしまう」のような感覚が、この本のラストにむけての流れにもあった。痛々しいほどの後悔がいまなお主人公を捕らえて離さない。死体のような「君」がずっと心の中に横たわっていて、思い出すたびに痛みを伴うのがヒシヒシと伝わってくる。

 

中東情勢を交えた社会派なスタンスと、主人公のルーツとなっているひどく甘酸っぱい日々の記憶の融合。その不思議な味わいが、この本を特別なものに仕上げてくれていると思う。 不穏とノスタルジー。読み応えのある歌集でした。

 

 

石段は湖底へと延びこれからするであろう悪いほうの祈り(50頁)

 

 

 

 

ダンスという引力のなかぼくら『ボールルームへようこそ』10巻

ボールルーム104
竹内 友 講談社 (2020-01-17) 売り上げランキング: 2,861

 

8巻→(2年後)9巻→(2年半後)10巻!

めちゃめちゃ掛かってるじゃないですか都民大会編・・・!!

でも読んでみると素直に納得してしてしまう。漫画としての熱量、織り込まれたメッセージ性、人生をささげて舞台に立つ者たちのプレッシャー・・・作者がこれを描くにあたって立ち向かうべき物事の凄まじさを読者も共有できる。 そんなわけで2年半ぶりに届けられた新刊もすばらしい出来。 コミックスが紙の重みだけじゃない、心に覚悟を促すようなズシリとした存在感を放っています。圧。 いや、久しぶりの発売日の1月をスルーして今更読んだのに、なにを偉そうに書いているのかって話ですが。反省。

 

ボールルームのアニメ、見ましたか?めちゃめちゃクオリティ高かったですね。 動きあっての難しい題材の映像化なのに拍子抜けするようなことなく 最後までヒリヒリとした空気感とダイナミックなダンスシーンを楽しめました。 あと音楽のちからは強いですね。原作ファンですが、アニメを見てより理解度が深まる。

https://www.youtube.com/watch?v=kLhfm-q7vXQ

 

じつはアニメの最終話はすでに原作の先を行っていて、 今回もまだアニメ最終話で描かれた地点にはたどり着けていません。

クライマックス中のクライマックスの部分が今回の第10巻には収録されていおり読み応えは申し分なし。 アニメでは描かれていなかった描写や、キャラクターへよりディープに寄り添うエピソードなどかなりブラッシュアップされた内容。「アニメでもう見た」からと言って退屈は一切ナシといった具合。

 

10巻は主人公・多々良の覚醒が大きなトピックになってくる。 9巻でムリヤリ肩甲骨をベリベリと剥がされて(比喩ではなくマジで)、練習通りのダンスができずコントロールを失ってしまう。 危機を察した千夏がそこに必死にフォローを入れる、ギリギリのバランスで競技は進行していく。

千夏はもともと男役(リーダー)を経験したことで自他共に認めるじゃじゃ馬キャラだが、コントロール不能の多々良をなんとか制御しようと動くうちに、千夏が開花していく。 肩甲骨ベリベリの一件は、多々良よりむしろ千夏に先に作用することになったのだ。 互いが互いの動き、呼吸、存在そのものに対して全力で集中していくにつれ、 意識も肉体もまるでひとつの生き物になったかのような"気配"に震える。

それこそがゾーンともいうべき、次の段階への扉となっていた。 今回のその10巻は多々良と千夏のペアが明らかな進化を遂げていく中で起こった不和や緊張、混乱。そして開放がじっくりと描かれている。

ハイになったプレイヤーの心理状況をここまで漫画として表現できるのか、言語化できるのかってくらい、このらへんの描写は作者の気合が凄まじい。

ボールルーム102

試合中に回想する。 自分にとってのペアとは?千夏とは?どんな存在だろうか。

ここで「宇宙」という言葉を選び取った多々良にグッとくる。 未知。すべてを理解することなんて不可能。そんな存在を「宇宙」にたとえてくる。思いを馳せてしまうのだ。ふと立ち止まり、ひとりの夜に見上げてしまうのだ。そして途方も無い気持ちになる。

千夏は気性の荒いパートナー。そんな彼女からシンと静まりかえる宇宙を思う。

お前!!多々良!そういうところだぞ!!!

おなじ音楽でおなじリズムで、ひとつの表現を目指すペア。 まずそういう要素があまりにもツボなんですよね。恋愛感情とかあってもなくても、そういう性愛とは全く関係のない領域でなにか強烈なものを共有できてしまえる現象が尊い。眩しすぎるんだよなぁ!

相棒感、バディ感。とくに多々良と千夏はふだんは全然合わなくて、好きな音楽、体内で流れるリズム、まるで違う。それでも心を寄り添わせていく。重ねていく。ただ夢中になって美しく強く進化を遂げていく。

ボールルーム103

こんな顔して、心底楽しいって顔して、生きていられる瞬間って人生に何度ありますか?

このシーンのカタルシスが凄まじい。熱狂の渦の中で感情をモミクチャにされてたら、ふっと嵐が止んだ。台風の目のなかに行き着いたように、穏やかな音のない世界。

臆病な多々良とそれにヤキモキしていた千夏が勢いよく扉をあけた先には、ほかのダンサーも観客もいない、ただ眩しいだけの世界があったのだ。 まさに大会のピークシーン。ずっとエクスタシーが続くようなテンションで心が汗を書きっぱなしである。

多々良の胸から花とともに千夏のイメージが現れるのも泣ける。千夏が完全に多々良に気持ちを預けて、そしてこの心象風景の描写がある。これって完全に意識をひとつにできていると感じるんだよな。すべてを理解できているわけではないかもしれないけれど、それでもここが、これこそが「2人が目指す美」が初めて見えた瞬間だと思う。

その上で表紙をもう一度見てみる。

ボールルーム104

めちゃめちゃかっこいいなオイ。これって宇宙と、多々良の胸に秘められた『花』が込められてるじゃないか。ああ、もう。複製原画にして売ってくれーーーー!

 

 

さて、10巻といえば釘宮さんについても触れなければならない。 実質今回の都民大会編のラスボスである釘宮さんは、トラックにはねられる大怪我から復帰した努力のダンサー。そして伝統を重んじる堅実なダンサー。

多々良と釘宮さんはしばしば対照的な描かれ方をする。初心者とベテラン。キャリアの差だけではない。伝統的なスタイルを守る釘宮、伝統を覆す大胆なスタイルの多々良。

釘宮さんの境遇を誰もが知っている。夢を諦めてもおかしくない崖っぷちから戻ってきた。フェアな審査をしなければならない、そうわかっていても誰しもが期待をしてしまうのだ、釘宮という男の復活を。努力が実を結ぶ、美しいドラマを。

けれど釘宮さんの回想で描かれたその人となり、ダンスに夢中になった経由、その闇・・・・・・シンプルな美しいだけの復活劇には、本人がそれを許さない。哀れなほど落ちぶれたことは本人がだれよりも知っている。師に見透かされた。ただダンスに夢中になっていた幼いころとは違うことを。悲しく大人になってしまったのだと。

ボールルーム101

ぜんぶ背負って、全部覚悟して、笑う。 進んでこの地獄に戻ってきた自らを笑うように。

釘宮さんが競技中ほかのダンサーがただの黒いモヤに見えているエピソードもアツい。そうして他人を見ないフリすることで自分を保つことが出来ていた。 けれど多々良たちはその黒いモヤを振り払って何度も釘宮の目に映る。 「いつの間にか目で追ってしまう」・・・・・・ダンサーとして稀有な才能、そしてパフォーマンスを無意識のうちに釘宮は感じ取っている。

黒いモヤと戦う努力の男、釘宮。 パートナーと心を重ねることでしずかなたった2人の世界に旅立った多々良たち。 こういった対比がよりドラマを熱く盛り上げてくれる。

 

 

そんな激アツな状態で以下、次巻! 次は2020年冬らしい。まぁこうなったら思う存分じっくりと描ききってほしい。 体調面しっかり整えて、どうか、この渦巻く熱狂と美しい人々の物語の続きを見せてほしい。

岐阜脱出記念・岐阜市周辺のラーメン屋TOP10

前回の記事で書いたように引っ越しをしまして、長年住んでいた岐阜を離れることになりました。

社会人になってからというもののラーメンや通いが加速し、昼休みや仕事帰りにたくさんの店に通った結果、体重が新卒4月のときから15キロくらい増加するという好成績を収めることが出来ました。

そんな生まれ故郷から脱出するとなると、愛着の湧いたラーメン屋を記録しておかねばなりますまい。写真はたくさん取ってたんですがスマホの買い替えのときに消してしまった・・・無念。

個人的に好きだった岐阜市周辺のラーメン屋TOP10について書いていきます。 職場だったり住まいの関係で、やっぱり行動範囲は限られてくるわけで・・・岐阜市周辺です。あとラーメン屋と言いましたが実際の所好んで食べていたのはつけ麺・まぜそば系だったのでそういった点はご注意を。

 

普段のアニメ・マンガの更新と違いすぎる?しらん

 

 

10.弾

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スマートな外観、こじゃれた店内、岐阜ではめずらしいコンセプトのオシャレラーメン屋。豚そのものの外見となった俺には関係ないことだが女性も気軽に入れそうな雰囲気はマル。じっさいラーメンも美味い。担々麺がメインがほかにも醤油・塩を中心にさっぱりとした梅ラーメンなど変わり種もある。ランチセットで頼むとクソでかいからあげが出てくるのと、机に置かれているもやしのキムチが取り放題のくせにメチャメチャ美味くてお得感がたかい。このキムチは岐大のほうの「麺屋無双」でもあったので系列なんだろうか。

 

9.旨辛麻婆麺かいえん

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カイエンペッパー的連想ができるように、ほかではなかなか味わえない山椒ゴリゴリの麻婆麺が頂ける店。腹いっぱいになろうとすると軽々1000円を超えてしまうのでコスパ的にはアレかもだが、中毒性のある味わいに月イチで食べたくなってしまう。汁なし麻辣担々麺は最高の一杯。辛党のひとは挑戦してみてほしい激辛メニューもあるが、個人的には標準で十分な旨辛。惜しいのは駐車場がすげー狭いってことくらいです。

 

8.つけ麺 丸和 各務原分店

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各務ヶ原が誇るラーメン店超激戦区のラーメン街道の一角に構えるこのつけ麺屋。たいがい外で10数分待ってから入店となる人気店だがそれも納得の旨さとコスパ。濃厚なのにさっぱりと食べられるつけダレもだが、角切りチャーシューも食べごたえあった。つけ麺だけでも種類が豊富だがほかにもまぜそばもあったような気がする。この店に関してはつけ麺がうますぎるのでほかメニューをあまり試さなかったので残念。ここの唐揚げは日替わりで味付けやソースが変わるのも面白い。

 

7.ラーメン・ガジロー

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二郎系にしろ家系にしろ岐阜はその手の店がわりと少ない気がした。ガジローはそんな中でもガッツリともやしを食える次郎リスペクト店。ラーメンもうまいはこの店ではもっぱらまぜそばをよく食べた。もやしチョイマシカラメって何度も注文した。昼は各務ヶ原店によく行ったが、ライブ帰りやモレラ岐阜でLVを見た帰りなどにはちょっと寄り道してここでまぜそばを頼んで、ライブ後ポエムをツイッターで書いていた。思い出の景色がたくさんある店。辛しょうゆラーメンにどっぷりモヤシを漬け込んで食うと美味い。

 

6.元祖三河味噌ラーメン おかざき商店

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大垣にある味噌ラーメンの専門店。ラーメン屋のランキングだが、この店は圧倒的に唐揚げがうまい。唐揚げの旨さでこの順位と言ってもいい(ラーメンもちゃんと美味い)唐揚げが俵みたいな形のクソデカサイズで登場する。食べ応えもあるが味付けが天才的。サイドメニュー部門を作るとしたら後述するもう一店のチャーシューと双璧。 ラーメンもベースの味付けを初代と2代目とを選ぶことができ、ピリ辛な初代と甘みがつよい2代目とで同じメニューでも雰囲気がガラッと変わって楽しい。ポイントカード2周した店。

5.すずまん

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岐阜のラーメン好きはぜんいん知ってるような気がする人気店。つけ麺が有名。じっさいつけ麺の王道的なスタイルなんだがこのド直球感が気持ちいい。まろやか目のつけダレな印象があるけど濃厚で食べごたえがある。そして期間限定で登場する、台湾まぜそば!これが最強である。レギュラーメニューにして欲しすぎる。フジヤマ55の台湾まぜそばやこのあとの第3位の店のも好きだが、ここのも甲乙つけがたいほどに美味い。えらく気さくな店長も好き。

 

4.ajito

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岐阜市役所本庁舎から西へ歩いて1分くらいの所にある。地下にひっそりとある隠れ名店。じっさいラーメン雑誌とかで取り上げられているのとか見かけたことがない。でもめちゃくちゃ美味いぞここ。 まぜそばコスパ良好で大ボリュームで好きだが、なんといってもつけ麺。特に辛つけ麺の濃厚な旨味は病みつきになる。ティーカップでつけ汁が提供される謎スタイルだがクエスチョンもぶっとぶ旨さ。期間限定でナポリタンとかも出してて美味かった記憶。何曜日かは忘れたけど無料でもう一品(小皿のカレーとか)がつく日があったり、個性的な店だと思う。まさに隠れ家的なラーメン屋。オススメ。

 

3.麺屋秀

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まぜそば専門店。めちゃめちゃ完成度がたかいまぜそばだと思う。パチンコ屋の中にあるので気軽に寄っていくってのも面倒なんだけど、あまりに美味いので月3回位通った。中でも魚粉入の台湾まぜそばが最強。卵かけご飯用のタレみたいな甘じょっぱい醤油を垂らしての追い飯で脳汁ブシャブシャになる。危険な旨さ。なんかカレーまぜそばがコンビニ商品になったりしたこともあるらしい。 師匠はこれまた岐阜の有名店「男は黙って前を行け」だが、まぜそばで比較すると個人的には圧倒的に麺屋秀が好きだった。

 

2.台湾らーめん大吉

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ランチでいくと大行列ができてる人気店。岐阜で台湾ラーメンを食べるならここ一択。名古屋で味仙が幅を利かせているけど、大吉が名古屋へ出店したらいい勝負できるんじゃないかなってくらい、最高の台湾ラーメンを食えます。濃厚なスープにニンニクごと炒めた野菜炒めがドンと乗って、スタミナ満点の一杯。シメにはアツアツ鉄球を入れて熱したあと、卵とごはんを投入して最高最強のおじやが出来上がる。神の飯。うますぎる。 岐阜駅から、かろうじて・・・歩いていける・・・か・・・?の距離にある。岐阜に来たらぜひ食べてほしい。この世で一番うまい台湾ラーメン。ネットショップもあるから食え。https://www.taiwanramen-daikichi.com/

 

1.やじや

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謎の中毒性がある大ボリュームのベトコンラーメンが看板メニューのラーメン屋。長距離の運転後に羽島インターで降りたらしぜんのこの味を欲してしまい、いっときは週1くらいで通っていた。ベトコンラーメンということでニンニクがもりもり乗っているし、ピリ辛の野菜炒めもぎっしり、もっちりとした中華麺も最高の一杯。ほかの店のベトコンラーメンはピンと来なかったがこの店のはドンピシャ。最高に美味い。

素揚げしたニンニクはすぐたべれば外がカリカリしてるし、ちょっとスープに沈めておけばまろやかなじゃがいもみたいな味わい方ができる。スープは豚骨なんだけどけっこう甘みがある。

ベトコン以外にも郡上味噌ラーメン、夜限定のカレーラーメンフェイスブック上でのみ告知される裏メニュー的期間限定品などぜんぶ美味い。ハズレメニューなしの完璧な店。チャーハンも油っこくて滅茶滅茶うまい。

そして個人的に、チャーシューが絶品。岡崎商店の三河からあげと双璧を成す、うまさがヤバいサイドメニュー。やじやラーメンにチャーシュー一枚トッピングをお願いするのがお決まりだった。

店の前に野良猫?が居着いていたり、店内の雑多な雰囲気は人によってはちょっと遠慮したい景観かもしれないけど、それゆえにアットホーム感が強くてとにかく好きな店だった。もしまた近くに寄ったら食べに行きたい。

 

 

以上10店舗。さらば岐阜。なんかまた帰ったら食べに行く。

 

転職・近況・短歌

ブログを放置しているあいだに転職したり引っ越し準備をしたりしていた。気づいたら2020年。あけましておめでとうございます。

2018年あたりからミリオンライブを皮切りにアイマスにどっぷり浸かってしまい、2019年はミリオン6th、デレ7th、バンナムフェスと現地にいく機会も多く、おかげで資金不足のため夏コミ欠席。加えて転職アンド引っ越しのゴタゴタで冬コミも欠席。久しぶりに1年通じて同人イベントに出向かない1年となってしまいました。

とは言え転職で地元の岐阜を脱し、関東勢の仲間入り(予定) これでコミティアにも文フリにもコミケにも行き放題・・・か・・・?

漫画のほうはぼちぼち読んでいるんですが、このブログでのアウトプットは全然出来てません・・・なんとかしたい・・・死体。 とは言え、雑誌はすべて電子に切り替えてしまった。 単行本は昔から買い続けているシリーズは紙ですが、新規で買い出すのはもっぱら電子。貧乏性なので電書ストアのセール時にまとめ買いを狙う・・・とやってると新刊の捕捉が遅れてしまいがち。「いまさら書いてもなぁ」という気分で更新が遠のく悪循環を感じる。電書でいつでも読めるすぐ読めるっていう環境なのにこんな状況になってしまうとは・・・読書スタイルに合う合わないは明確にありそう。

これを書いている時点ではまだ引っ越しはできていませんが、早いとこ生活のかたちを作って満喫したい所。

 

 

 

 

そんな状態ですが、2019年には個人的にあたらしい趣味を掘り下げられた一年でもあったなと。タイトルにもあるとおり、短歌です。短歌にハマったきっかけはこの歌。

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのに君が「ん?」と振り向く(初谷むい)

何度見ても眩しい一首。 おそらくイルカのショーをみている場面で、君が「ん?」とこちらを振り向いた。 たったそれだけの一秒にも満たないであろう瞬間を切り取っている。なんでもない日常の中でこの瞬間だけが異様にスローモーションになっている感覚があり、つまり運命というものに触れたような、私にとってあまりにも特別な一瞬に、ドンピシャのタイミングでシャッターが落とされたような奇跡的な静止。なにも言ってないのに君が振り向いた。そのことだけですべてが叶えられてしまった。言語化できないけどメチャクチャ心震えるのだ。「あ、通じた」っていう閃光。あえてここをこんなふうに歌として切り取ったという歌の成り立ち強烈なインパクトがある。

花は泡、そこにいたって会いたいよ (新鋭短歌シリーズ37)
初谷 むい 書肆侃侃房 (2018-04-16) 売り上げランキング: 129,131

 

 

ツイッターでミュージシャンの下川リヲがこの歌集を絶賛していた。個人的に歌詞における言葉の使い方が個性的でおもしろいなと関心があったので、そういう人が歌集というものに刺激を受けている様子を見て、ちょっと物は試しという具合で初めての歌集を買ってみたのだ。

以降ハマったという程ハマっているのか分からないが、クソ労働の果ての低賃金からちょっとずつ気になってる作家さんの歌集を買ってみたり、ちょっと自作してみたりしている。 短歌というのも学校の授業でやったくらいでなんとなくしか知らなかった。「サラダ記念日」とか「みだれ髪」とか「一握の砂」などのイメージしかほとんどなかったわけだが、ハマってるのはいわゆる現代短歌というやつだ。昭和以前とか和歌とかになってくると未だに読めない。

だけど近現代の口語でめちゃくちゃ読みやすいうえにいろんなテーマを歌えたり遊びをきかせてみたり、読めば読むほどギミックの奥深さや31文字というリズムに宿る面白さやあえてルールを無視してみる破調の魅力が、ちょっとずつ分かってくる。

ハマってから一年くらい経ったので、いまの自分の考えや感覚、好きな歌や作家などメモしながらついらつらと書いていく。

 

 

 

 

だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし(宇都宮敦)

これ、もはや何も言ってないに等しい。メッセージ性ゼロ。結局なんなんだよ!でも面白くないですか。ゆるくて気ままでマイペースな感じ。なんか思わず発声してちょっとニヤッとしちゃうような言葉の面白さ。「急ぐ旅ではないのだし」ってなんか言ったことある気がするもんな。道が渋滞してるときとか電車が遅れたときとか。そこからこう言葉遊びをかぶせてくる。

あの子は僕がロングドライブを決めたとき 必ず見てない 誓ってもいい(しんくわ)

卓球部を舞台にした異色の短歌コメディ連作の中から一首。言うまでもなく岡村靖幸のパロディだがこの謎の自信たっぷりの情けなさが果てしなくキュートで悶絶する。歌集「しんくわ」収録の「卓球短歌カットマン」ははじめて笑いの声がでた歌集。それ以外にも既存TCGのテキストに貼り付けて遊ぶオリジナル短歌バトルカードゲームもついてくるなど色んな意味でふざけ通した本だが、そんな中でこの歌のようなセンチメンタルをくすぐる甘酸っぱい歌もたくさんあるのだ。

ストローを噛んだ部分が白くなるようにときどきにごる世界で(橋爪志保)

これは「これをあえて歌にする!?」っていう日常の再発見のおもしろさ、みたいな感じだろうか。短歌の面白さに、31文字でどこまで飛躍して彼方へ着地させるか(着地させないか)みたいなところを感じているけれど、この歌もそこが面白い。

カレンダーをめくり忘れていた僕が二秒で終わらせる五・六月(木下龍也)

これも描写するワンシーンが面白しいその中に時間の捉え方が個性的で、たしかに時間も日々も過ぎ去っていくのにカレンダーをめくり忘れていたことで停滞していた別の次元というのも露わになっている。その次元をたった二秒で終わらせる。神様みたいだよな。ほんとはただめくり忘れてただけなんだが。5月6月というのもなんかいいチョイス。GWのぼんやりとした空気を引きずった気だるさが伝わってくる。反芻していくつもの面白さを発見できる。

この歌を知ったのは穂村さんの短歌エッセイだったかな。穂村弘さんはエッセイもめちゃくちゃ面白くて本職はどっちなんだかもうわからないくらい人気作家だが、もちろん歌もめちゃくちゃ楽しくてぶっ刺さるものがたくさんある。

「フレミングの左手の法則憶えてる?」「キスする前にまず手を握れ」(穂村弘

飲み屋でとなりからこんな男女の会話が聞こえてきたらめちゃくちゃ盛り下がりそうな、クサさとくだらなさが絶妙にマゼコゼになったお気に入りの一首。目の前のロマンスに夢中で常識が通じないアホっぷりと、なんかいい感じのこと言ってる~~~~っていう呆れみたいな憧れみたいな。次も穂村さんだが

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい(穂村弘

たぶん有名な歌。すごくセンシティブでナイーブな語りかけを、あえてサバンナの、しかも象のうんこにしてしまおうという飛躍がエグい。茶化しているようで、実際には主人公が空想上のサバンナの象のうんこくらいにしか弱音を履くことも出来ないというシビアな現実逃避、磨り減った自分の感情をドライに客観視しているような切なさも感じられる。でも象のうんこなのだ。うなずくことも寄り添うこともしてくれない。

どれも穂村弘さんの「ラインマーカーズ」っていう本に入ってる歌です。ベスト盤みたいな本でめちゃくちゃいい。口語短歌が好きでこの人の作品を通過しないルートというのはなかなかないんじゃないかってくらい大御所だ。

 

 

 

 

別ベクトルでちょっと怖い系の。

家族の誰かが「自首 減刑」で検索をしていたパソコンまだ温かい(小坂井大輔)

学生時代までは家族共有PCを使っていた。このシーンはリアルに自分の体験に重なりそうで、でもこんな恐ろしい感覚になるとは思わなかった。家族の誰かが好奇心から検索をしていたのだろうか、それとも・・・・・・。家族という安心できる距離感に潜む暗部を暴かれているような、「所詮他人」感を突きつけられているような。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって(中澤系)

有名な歌、だろうか。少なくとも引用されているのをよく見かける。なんかキーホルダーとかにもなってる。 それにしてもこのヒヤッとさせられる感覚はなんだろうか。中澤系さんは社会のシステムであったり風刺を聞かせた理知的な歌をおおく遺している(もう亡くなられている歌人)が、その中でもこの歌は漫然とした社会の不安感や孤独感みたいなのを言語化していて、「自分だけがわかっていないのでは?」「自分だけが取り残されているのでは?」という感覚に襲われる。「理解できない人は下がって」というフレーズの、この冷たく突き放されている感じ・・・。実際のところ電車が通過するんだから下がるようアナウンスが鳴るのは当たり前なんだが、そこへの反逆が飛躍して生の否定のメッセージとも取れる。

歌集「uta0001.txt」は一読してひどく冷笑的な印象がまずある。現代への絶望や皮肉が込められた歌たち。有名なのは歌集の、ラストにも置かれている、この歌だ。

ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ(中澤系)

こっわいしなんだこの歌。ブツ切りになることで、突然PCが落ちたような呆然とする感覚に陥る。椎名林檎のアルバム「加爾基 精液 栗ノ花」の「葬列」を思い出した。

個人的に短歌ってこれアリなんだと衝撃を受けたうちの一首だ。切なさとそれを塗りつぶすかのごとく狂気が顔をのぞかせて歌集は終わる。ラストを飾るにふさわしい象徴的な歌。

でもそんな中で、陽炎のようにゆらめく、ほんとうに実在するかも危ういこの世界のやさしさや安らぎのような側面も歌っている。歌集「uta0001.txt」はメチャクチャ好きな1冊で、うまく飲み込むことができたときはこれで1記事書いてみたいくらいお気に入り。付箋がいっぱい本からはみ出てとげとげになっているのだ。

長き夏の翳りゆきうす赤く染まる世界のなかに二人は(中澤系)

ただただ美しい光景にいる二人。歌集の流れで読むと、このワンシーンがひどく眩しくて、けれどもう失われてしまったかつての日々のような感傷が自然と読み手の心に立ち上ってくる。光景は美しいはずなのに「翳り」「赤く染まる」などワードとして不穏を感じる。こういった歌は単体で読むより、無機質なこの本のなかに佇んでいることで一層世界が広がる。世界は美しいはずなのに、自分をとりまく世界の冷たさやがらんどうな精神世界に、取り残されていく。

歌集で読んでこその面白さを体験すると、名歌と呼ばれる一首をたくさん鑑賞するとは別の面白さがあるんだと痛感させられる。

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あと短歌といえば恋のうた、というのは与謝野晶子とか俵万智的なイメージが強いせいだとおもうけど、このテーマも好きな歌がいっぱいある。

とどまっていたかっただけ風の日の君の視界に身じろぎもせず(大森静佳)

水をあゆむように夜の道をゆき過去をふたりでつなげてあそぶ(東直子

おくさんが どこでもドアを持ってたら あたしたちもう会えなくなるね(栗原あずさ)

どれもこれも魅力的だし、たった31文字なのにそれぞれどんな主人公なのか、浮かび上がってくる女性像がまるで違う。

加えてこの曲なんかは、恋の歌から飛躍して有る種の永遠性のような部分にまで言及している、気がする。

冒頭で紹介したイルカの歌が、一瞬がキラッとしたわずか一瞬を捉えた歌だとすると、この歌なんかはたった31文字で途方も無い宇宙のような永遠のような、自分の存在がちっぽけに感じるような不思議な遠近感を持っている。

切れやすい糸でむすんでおきましょう いつかくるさようならのために(笹井宏之)

誰にもコントロールできない「運命」というルールがこの世界にあるのなら、ぼくらにできることはそのために備えることくらいだ。せめてさようならのために。けれど結んでおきたい。それくらいは赦されていいのでしょうか。この歌は神からの言葉のようにも、それに翻弄されるかよわい生き物たる我々の言葉のようにも取れる。

笹井宏之さんの作品は、身近な言葉やいいまわしなのにどこか天からのお告げのような、はるか天空に流れる風のような眩さを覚えてしまう。めちゃくちゃいい歌人です。

 

 

 

ざっと書いてみましたが。こう、歌の良さというか、自分が感じ取った詩性について言語化するってのはめちゃくちゃ難しい。でも書いてみたくなるんだよなぁ。

短歌には現代短歌評論賞っていう、作品を批評・評論したテキストに対する賞もあったりして、そういう角度からのクリエイティブも成立しているってのも個人的には面白い。

 

とは言え、こういうじっくり味わう歌の世界ってのは、精神的にゆとりがないと飲み込み方も下手くそになる気がしている。新しい会社で研修中アンド引っ越し準備中のいまの自分ではちょっと余裕がないので、せめてここらへんももっと楽しめる生活にしていきたいですね。

という事で。

 

(久しぶりの更新でとりとめなさすぎでは?)

 

もう一度「世界、っていう言葉がある。」が鳴っていた『天気の子』

小説 天気の子 (角川文庫)
新海 誠 KADOKAWA (2019-07-18) 売り上げランキング: 1

 

「天気の子」を見ました。

公開初日の夜、仕事あがりに映画館に駆け込んで、21:45開始の回。最もキャパのある1番スクリーンが満席だった。客層のばらばらだったけれど上映中は息を潜めてみんなが見守っているかのように、静かでどこか厳かな空気が漂っていた。素敵だなと思った。

2回目は小説版を読み終えてから8月14日のレイトショー。 なんとなく自分の中で気持ちを落ち着けてから、改めて確認するような感覚で。

 

思ったことを書き連ねていきたい。

前提としては、この映画を俺はメチャクチャ好きだってことなんですけど こんなに「好き」と言うためにいつもと違った勇気のいる映画ってすごいな。 測られてる気がしませんか?適性を。 でもそんな思いを抱えながらも「俺は、好き!」ってみんなが言っている、気がする。

それにしても、全然考えがまとまらなくて記事が全然書き上がらなかった。

見終えたあといろんな人の感想を読み漁りまくってしまい、もう自分の感想なのかだれかの感想をパクったのかもうわからない状態になりつつあるけれども。まぁでもこれ以上だれかの文章を読むとそれだけで満足してしまいそうでもったいないなと思ったので適度に切り上げて書き出します。

これは個人的な備忘録として、思いついた時に書き足したりあるいは書き換えたり、 好きなように使います。そしてまとまりもありません。

 


東京の風景

そもそも新海誠映画を取り上げて「背景がすごいですね」って当たり前なんですけど、その当たり前を生み出すのにどれだけの手間がかけられてるかって話ですよね。

なにかとこのあとも「君の名は。」と比較してしまうと思うんですけど、今作で描かれる東京って、薄汚いなとまず思う(言い方がひどい)。錆びたフェンス。半端に消えた電飾。転がるゴミ。下品な街並み。少年がうずくまっても気にもとめない冷徹な人々。管理されてない、奔放でありのままの風景。それら都会の暗部が、雨でにじんだ美しい光の中で、いやな存在感を放ち続ける。

そしてわざとらしいくらいにタイアップ先の企業の商品が登場する。あの謎の存在感を放つ『バーニラバニラ高収入!』のトラックと歌が出てきた時には思わず軽く吹き出してしまった。それはスポンサーのための商業的な側面もあると思う。けれど、この時代のそのままの空気を閉じ込めたような効果もあって、それがこの作品においてはめちゃくちゃ重要なことだと感じるのだ。狙い通りなのだろう。

君の名は。」に描かれる東京はキラキラと華やかだった。未来的で清潔な街並み、たのしい学校生活、放課後にはオシャレなカフェにだっていけちゃう。飛騨の街との比較のためでもあったと思うけれど、少女が夢中になって憧れるような、絶対の天国のような、そういう見せ方になっていたと思う。

天気の子は、2019年の東京がどんな姿をしていたのか。まるで記録するかのように、美しい部分も醜悪な部分も描く。街も人もけっして美しいばかりの世界なんかじゃない。

とくに今回は主人公サイドが現代日本貧困層としてほそぼそと生活を送るという設定上、暗部にあえてスポットライトを当てている。東京アンダーグラウンド、夜の街は冷たいね・・・

2019年のいま、ぼくらの生活を取り巻くもの。音や、映像や、食品、抽象的にしかならないがこの空気感のようなもの。いまのぼくらを形作るものが、間違いなくこの作品にはパッケージされている。清潔で美しい街を描くことのほうが、素人意見だが、きっと楽だろう。視界の邪魔をしない。余計なものがない。けれどあえてこんなにリアルで薄汚れた世界を描くのは、その必要があったからで、そして必然性がこのストーリーには確かにあったと思う。パンフレットの監督インタビューでも「オリンピックで東京が様変わりする前に、東京が変わってしまう話を描きたい」という一節があった。

「世界なんてさ―――どうせもともと狂ってんだから」

後述するが、この作品の核となるセリフだ。 狂った世界を突きつけるために、この作品は執拗なほどにリアルないまの世界を追い求めているのだろう。

なお、ぼくらを取り巻くとかなんだかんだと言ったが地方民なので東京の男になったつもりでこの文章を綴った。バニラカーとか1回しか見たことがない。 でもやっぱりこんな東京を見たあとでも、新海誠が描く『東京』はやっぱスゲェよ。ここで人の生活を営まれているという実感がこんなにアニメの風景で感じられるかね。


ぼくのジュブナイル、ぼくの"新海誠"

ジュブナイルという表現があってるかどうか。教育や教訓を重視する優等生なものではない青春物語、的な捉え方で自分は使っているけれど。

ラストシーンについてはあとで書くとして。

君の名は。」と同じく非常に強いエンターティメント作品であるが、もちろんキャラクターは違うしストーリーも違うし、根本的に作品が向いている方向が、まるで違う。そしてこれこそが「新海誠」の真髄なんじゃないかと、12年くらい新海誠に取り憑かれている自分は思うのだ。(というか「君の名は。」がド直球なだけで新海の基本は、"こっち"だろ。みんな知ってるね。)

当たり前だが「君の名は。」の商業的な大成功となり、もう100年後の日本のアニメ史にも名前がのっちゃってるんじゃないかっていう大記録を成し遂げた金字塔。 配給としても期待大、ハチャメテャなプレッシャーの中でこの「天気の子」は世に産み落とされたわけだが、こちらとしては

「えっまじで?こんな純度の新海汁をブチ撒けちゃってていいんすか?」

としか思えないくらい遠慮ない深海節を堪能できる映画となっていたことがまずびっくり。 すごすぎるでしょ。大ヒットの次回作なんて、ハードルも上がってるしいろんな制約も増えて、正直、どんな作品が出来上がるのかと心配だった。なんか制作もギリギリだったようだし。ところがなんの心配もいらなかった。

最高の映画だ。

最高の、新海映画だ。

様々な点で、新境地と原点回帰が見られる。 もちろん1本のアニメ作品として抜群の出来なんだけど、過去作を踏まえてみると本当に多層的な楽しみ方ができる。 とくにクライマックスで見せつけられる光景、言葉、決着――― あまりにも、あまりにも眩しくなってしまう。これは呪縛を打ち破った「君の名は。」のラストシーンとはまた違った感動。「秒速」でもいいし、セルフオマージュでもあると思われるいくつかのシーンなんかは「雲のむこう、約束の場所」を想起させる。

その上であの映画ではたどり着けなかった結末を、当時の新海誠では描けなかったであろう強度で突きつけられてて、「君の名は。」とは違った形の敵討ちみたいな感じだ。東京の街、並走する電車でガラスごしに目が合った瀧と三葉のカタルシス。それと似た感覚があるのだ。俺の中では、過去の様々な作品がこの「天気の子」が巡り合い、それぞれがまったく違う光を放ち始めているのだ。

そもそも「雲のむこう」はテーマとしてもかなり「天気の子」と関連性があるように思う。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=OCO-csVHouo&w=560&h=315]

「サユリを救うのか、世界を救うのかだ」

ヒロインと世界を天秤にかける、まさにセカイが俺たちの心臓を貫く作品だ。セカイ系といえば「ほしのこえ」だろうがいま概念と取り出すとより明確にセカイ系のイメージが色濃いのは「雲のむこう」なんじゃないかと思う。

そう、巡り合ってしまったんだ。あの頃の新海誠に。 それが2019年の夏、全国何百という映画館で大スクリーンでなんて、こんな贅沢なことがあるだろうか。この現実にしびれてしまうんだよな。あまりにも原液のままの新海誠なのだ。けれど全てがアップデートされている。完璧なエンターティメント作品として差し出された「天気の子」。なのにひとくちかじりついたら中から実家の豚汁の味が滲み出てきたみたいな感じだ。

「え、なにこの映画、気持ち悪くない?」 「なんでこんなエンディングになっちゃうの?」 「こんなのってアリ?」ってなる人も当然いると思うんですよ。 というか自分自身が、こんな新海汁100%みたいな映画がこの夏最大の話題作!みたいなノリで全国ロードショーされてることにめまいすら覚える。だ、大丈夫なのか?

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟

いくつかのインタビューを読んだ。それから小説版のあとがきも読んだ。 「君の名は。」のビッグヒットを経て、称賛も受けたがそれ以上に批判されることの痛みが印象深く監督のなかに残ったようだ。 そしてより賛否両論を巻き起こす、嵐の中へ飛び込もうと決断したというドM監督。願いは叶い、まさかと思うほどに新海誠すぎる最新作と相成った。けれどきちんと大多数に差し出せるだけのラッピングが施されている。

本作はボーイミーツガールの王道。この輝きの魅力がなによりもデカい。 この王道を、基礎から徹底的に叩き上げ練り上げ完成させ、そしてブン投げてくるんだからそりゃオタクは参ってしまう。そしてキラキラ青春ラブストーリーを期待して見に来る一般層もおそらくキャッチできている。

たしかにオタクがゴチャゴチャ語りたくなる多層構造とカタルシスが間違いなくある。 けれどそれと同じように、本当に、純粋にエンタメなのだ。 突き抜けて出来が良い、見ていて楽しい。それでいて見終えたあと、ちょっとあと引くミステリアスな魅力。エンドロールまで見守って、劇場にライトが付いて席を立つ。スマホの電源を入れながら段差を降りていき、内容を反芻してみる。いや待てよ?・・・この結末、なんかおかしくないか? 俺はそういう体験を「君の名は。」しかまだ新海作品を知らない人にしてほしいなと思う、めんどくさい人間だ。

こんな俺好みの作品がこの世に存在してていいのか? これ以上のフィット感、この先の人生で出会えるのか?

そんな心配まで出てきてしまうくらい、すごい。「君の名は。」の場外ホームランみたいな圧倒的多幸感のあるハッピーエンドも最高だ。けれどこの、ちょっとはっきりとした感想がすぐに出せない靄がかった感じ・・・その上で何層にも折り重なったドデカ感情。いまこうして文章を叩きながら思い出しても、思い返すほどにむせ返るような感傷と決断にまみれていてゾッとしてしまう。選び、生きていく。2010年台に蘇ったセカイ系の新しいかたち。こんなのさぁ、好きに決まってるんだよなぁ。

おかげでネットでは2000年台初頭に発売されたPCゲーム版「天気の子」の集団幻覚に陥っている始末。

https://twitter.com/Frozen_Frog_8/status/1153320286843887623

ギリッギリわかるようでわからないラインの年代なんだけど、「ありそう」感がすごい。そしてこんなにオタクたちがおおはしゃぎしている映画なんだけど、本当に「君の名は。」から新海誠を見だした若い人はこの映画を好きになってくれてる?好きになってくれてるといいなぁ。

とりとめのない項目となってしまったが、つまりは、「君の名は。」の次回作としてこの2019年にこの作品が公開されたことの意味や価値、そういったものが、27歳になった今の自分にとってすごく大きな意味を持つ、ような気がする、って話です。

クライマックスの展開については後述。

 


対話するキャラクターたち

先程も貼ったインタビューをもういちど。

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟

「そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました」という部分。それ〜!!

本当に、躍動する若い力を感じさせる映画だった。

そして個人的には、「対話してるなぁ」と思った。 対話する。 過去もっとも対話した新海映画だったのではないだろうか。当たり前のコミュニケーションなのにね。結果どうなるかはさておき・・・。

新海印の効果的なモノローグは今作も健在なんだけれど きちんと会話して、確認して(ときどき先走るが)、ストーリーが進んでいく。キャラクター同士のつながりが精神論に依るところではなくきちんと現実の結びつきとして描かれる。地味にこれが革新的。

なによりクライマックスで二人が空の上で叫ぶセリフ。 ようやくたどり着いたと、思わず泣けてしまった。 この言葉を言えなくて、確かめることができなくて、いまなお春の亡霊が参宮橋駅周辺の踏切あたりにさまよっているんだぞ。

ひとりで悩む、ひとりで想う。孤独に苛まれながらも、どこか孤独に癒やされ救われていくような時の流れは、これまでの作品でも印象深い部分だ。近年の作品へゆくにつれそれは少しずつ変わっていき「君の名は。」ではより開放的な世界となった。ただ本作は「君の名は。」と比べても、従来通りの新海ワールドなのに人物相関図の力強さは最先端なため、よりこの要素が際立って感じられた。

新海映画に特徴的なモノローグは、ときに女々しくときにナルシシズムも含み、作家性を強く反映すると同時に反発も抱かれてきた要素だと思う。本作は過去作と比べて比較的少なく、それゆえにその独白に混められた願いの深さに、じっとりと胸を刺されるような心地がある。

「これ以上僕たちになにも足さず、僕たちからなにも引かないでください――――」

あのラブホテルでのシーンの、あまりにも素朴で純粋な祈りの言葉。 新海誠は、映像で詩を生み出してきた。観るものの胸にいくつもの詩を生み出す起爆装置のようなエッセンスが持ち味だと思っている。 そういう意味ではキャラクター関係は作品を重ねるごとに強固になっているような感覚があるが、根底にある作家として魅力はなにも変わってはいない。 ただ先にも書いたように本作はメインキャラクター同士がきちんと対話をする。 言葉を紡ぐことで他者と向き合う覚悟を己に課しているような、きちんと想いを相手に届けなくちゃ始まらないんだと言い聞かせるような作品のように思う。コミュニケーションの強度がこれまでとは性質が異なっているような。

 

ざっくりとキャラクターについて書く。まず主人公ズ。 主人公の帆高は島を飛び出してホームレス。 ヒロインの陽菜は親を無くし、追い詰められて未成年ながら水商売に手を染めようをする。

いや、生活困窮具合がすごいぞ!

でもこれがきっと2019年日本のリアル。夏なのに冷たい雨の降る東京の夜。その攻撃性に震え、身を寄せる少年と少女。疑似家族モノの要素もある本作にぴてこの苦境をしっかり魅せておくのも重要だったのだろう。 それに、クライマックスで帆高と陽菜がとった決断。「世界に愛されない僕たち/私たち」という確かな実感が、あの選択肢を取らせた一因となっていることも否定できない。

いや。苦境に立たされているのは主人公の彼らだけではない。 コメディパートのほんわかとしか空気で忘れがちだけど、他のキャラクターもシビアなリアルを抱えている。

安定しない職につきながら亡き妻の義母との関係にも頭を悩ませる中年、須賀圭介。 絶賛モラトリアム、就職活動がさっぱりうまくいかないもだもだ女子大生、夏美。 帆高の東京生活を支え、そして走り出した彼を最大限バックアップするキーキャラクターである二人も、それぞれ悩みを抱えている。 (この二人の詳しい描写はむしろ小説版で補完されているので読んでほしい。とくに終盤で、自らのモラトリアムがいまここで終了したことを確信する夏美さんは名シーンすぎる)

 

まだまだ読みとけていない部分も多いが、やはり須賀圭介というキャラクターが背負うドラマ性だったりセンチメンタルだったり下らなさのようなものが、本作では1番人間くさくてたまらない。本作では1番好きかもしれない。須賀圭介、最高だよ。

大人として帆高をときに支えときに立ちふさがる。主人公にとってある種父親のような存在として描かれる。明確な「大人」だ。ただ垣間見える描写をたどるに、一筋縄ではいかない大人の苦しみがにじみ出ているのを感じる。

多くの人が指摘している通り、妻を亡くした彼が映画冒頭でぽつりとこぼした「誰かの命の恩人になったのは初めて」というセリフは、意味を知って聞くと泣けてくる。いまだ言えない傷がささいなことで刺激されひとりの男を苛めている。

喪失を背負った情けない大人の男といえば「星を追う子ども」で登場したモリサキを思い出す。妻を生き返らせるために策を講じた彼を待っていた運命は、主人公アスナの旅でその痛みが浮かび上がった。いつまでも過去にすがることしかできなかった、寂しがりの哀しい男の話だ。

単純に比較することもナンセンスだとは思うが、須賀はモリサキとはまた違った「喪失に抗う大人像」を見せてくれたキャラクターだった。小栗旬の演技もとても好み。やさしい部分とめんどくさがってる部分が両立されている。かっこよくも情けなくもあって、大都会で帆高を拾ってくれたのが彼でよかったとも思うし、帆高を通じて彼の人生も少しずつ好転していった実感がたしかにあったりもする。やっぱ、少年のがむしゃらな姿に心打たれる大人って、いい大人なんだよな。大人になりきれてない大人は、みんなそういうことになっちゃうんだ。

保身に走ってしまうことや、ひとりの犠牲で社会が正常に回ることを、仕方のない正しいことだとして飲み下す。けれど終盤で帆高が大人たち全員に向けて、「邪魔をしないでくれよ」「俺はただもう一度、あのひとに会いたいんだ」と素直な言葉を叫んで、そして警官をブン殴って帆高を屋上へ向かわせる流れ!王道だけど熱いなぁ!

この映画「大人はわかってくれない」という少年期のワガママな鬱憤が原動力になっているわけじゃないですか。結局須賀さんだって、3年後のエピローグで帆高に向けて大人としてのセリフを吐いてしまう。そりゃそうだよだって大人だもの。でも。社会的悪人になってでもあの瞬間に帆高を屋上へ向かわせたことで、須賀さん自身の救いになってくれたらいい。きっとそうであってほしい。大切な人を守れなかった自分を重ねた情けない投影であっても。

帆高を「少年」と呼んでいましたが、エピローグでは「青年」と呼びかけるかたちに変化していたのが、彼なりに帆高の成長を認めているのと大人の入口に立った少年へのエールのようでもあり、大好きな演出。

 

夏美さんは・・・・・・ゲーム版だったらまっさきに攻略に向かうな・・・。 個人的には本田翼の演技もそこまで気になるものではなかったし、キャラクターとしてもメチャクチャ惹かれるものがあった。お姉さんにからかい口調で「いま胸みたでしょ」ってなじられたくない16歳キッズおるか?全人類の夢。

ともあれモラトリアムに苦しむ彼女の苦しみはアニメではどこかコメディ的に消化されていた面もあり、小説版での掘り下げがもっとも効果的な人物は夏美さんだと思っている。 先にも書いたけども小説版242頁(第9章ラスト)の独白は完璧と言っていい。これが読むことで本作における夏美さんの役割がより際立つ。アニメ本編ですこしでもモノローグ的に入れてもらえなかっただろうか・・・。

「私はここまでだよ、少年」

「私の少女時代は、私のアドレセンスは、私のモラトリアムはここまでだ」

「少年、私はいっちょ先に大人になっておくからね」

この下りはメチャクチャ刺さる。須賀さんは大人の立場から少年たちの選択を見つめていくポジションであることに対して夏美さんはこの夏をもって大人になったというキャラクター。気持ち悪い発想をすると主人公は別ヒロイン(陽菜)を追いかけながらもこの夏美さんという超絶美人の人生において大きな痕跡を残すことに成功しているので実質攻略完了みたいなもん。

まぁともかく、キャラクターについては現状補完できる資料が小説版くらいしかない(あとで資料集とか色々出るとは思うが)ので間違いなく読んだほうがいい。

 


 

もう一度「世界」と向き合うラストシーン

 

https://www.youtube.com/watch?v=ldRznIwZeBc

 

「世界、っていう言葉がある。」 そんなモノローグで新海誠は監督人生をスタートさせている。初監督作品「ほしのこえ」の冒頭の一節だが、やはり新海誠と「世界」は切ってもきれない関係なんだろう。

そもそもここで言う世界とはなんだろうか。所詮10代の少年少女が感知しうる世界の範囲などたかが知れている。その手で触れられるものも限られているし、その力で変えられるものなんて一体なにがあるというのだろう。 それでも彼らが口にする世界という言葉を安易だとか愚かだとかで片付けたくはない。 本作「天気の子」を見た後だと「世界」という言葉が内包するあらゆる要素が、いかに少年と少女を結びつけ、そしてこの先彼らを苛めるか、非常に過酷なラストシーンだったと個人的には認識している。

感じとしては、前向きながら後ろ歩きしちゃったみたいな。違うか。

やはり議論の焦点となってくるのはその終盤での彼らの選択だろう。 ボーイミーツガールとしては正解。でも、じゃあ他の視点ではどうだろう?

 

映画を最初に見た時、ラストシーンで空が晴れたと思った。2人が再会したときに雨がやんだように思った。2度めに見た時確認したけれどそれは勘違いだった。雨は降り続けていたし空は晴れてなんかいなかった。当たり前だろう。でも、2人は再会したとき、喜びよりもまず張り詰めたような表情を見せるのに気づいた。その後笑顔をみせてくれるけれど、あの膨大な感情を前に途方に暮れたような、あるいは真摯に渇望するような、切なげな表情が頭から離れなかった。

身勝手に願いを叶え、世界の形を変えてしまった。 きっと彼らはその責任から逃げようともしない。

ラストの再会の直前、ヒロインの陽菜は空に祈っていた。彼女はかつて空に祈ることで晴れにできる、100%の晴れ女だった。けれど、あの空からふたりで廃ビルの屋上へ戻ってきた時に、巫女としての力は失われていると思う。首のチョーカーが壊れたこともそれを表しているのだけど。

(チョーカーについての考察はたくさんあるけどここが好き。 陽菜さんのチョーカーが愛おしくてもう限界でござる。 ——母親との別れの物語として見る『天気の子』 )

 

じゃあなんで俺が最初にこの映画を見た時にラストシーンで「晴れた」と錯覚したのか。観察力が足りてなかった。そうです。でも2回めで見た時、勘違いなだけじゃないなと思った。あきらかに画面が明るくなって、ふたりの表情は煌めいて、フィナーレの『大丈夫』が流れ出して、・・・・・・雨が降っていても、世界はこんなに美しい。その雨が2人の罪の象徴だとしても。雑な捉え方をすると、この作品の言いたい事のひとつにそういうメッセージもあると思う。つまりはボーイ・ミーツ・ガールの魔法。少年と少女のひたむきな思いが、ほんのすこし、世界を変える。巫女の力なんかじゃない。ファンタジーが描ける最も強いファンタジー。なんでもないぼくらが、ありのまま、願ったままで世界を変える。感じ方ひとつで視界は様変わりする。そうだろう。フィクションとはそうであればいい。荒唐無稽だろう。けれと、元来人々がもつ、奇跡を起こすチカラを信じる。そういうエンディングのようにも感じられるのだ。

別に特別な能力なんてない。自分たちの力で世界を変えた。 東京を海に沈めた。 そうじゃない。

特別な力なんかなくたってあそこで2人は再会できたことも自分自身の力で叶えた現実だ。自分たちの意思で歩いていく。背負って生きていく。この強さを、世界は祝福する。特別な力なんてなくたって世界はきらめく。それができるだけの生命力や本来、少年少女は持っているのだ。というメッセージのように受け止めた。

と、とてつもなく曲解していることはわかっていますが。

世界なんてもともと狂ってる。けれどそんな真実を、そんな慰めを、最後の最後ヒロインの再会した瞬間に打ち消した。「違う!たしかに俺たちが世界をかえたんだ!」と。まるでそうご都合主義かもしれないし、見ている側が都合よく解釈しているだけに過ぎないのかもしれない。

けれどいくつもの可能性や解釈が折り重なって作品は形づけられる。主人公が願った世界のように、途方もなく、俺はこの作品のそんなメッセージを愚かにも信じてしまう。無数の罪を背負い、わがままを貫き通して、それでも彼らは世界から祝福されたのだ。 いやむしろ世界から祝福なんかされなくたって生きていける。 自分の力で、自分の決断で、世界を変えて生きいける。「大丈夫」なんだと、そう信じてしまう。物語で描かれる少年少女に向けた、最大級のエールと最大級の祈りのようなものを感じる。

セカイ系のあたらしい着地点だと思う。セカイ系が示せるハッピーエンド、こんなのあったんだ?ってなる。発見。ハッピーエンドじゃないかもしれない。でも、セカイとぼくらの関係性をこんなふうに纏めてしまったのはやはりすごいよ。この万福の肯定感。こんなに「大丈夫」って言ってくれる新海作品かつてないよ…………。

でもネガな意見も芽吹いてくるのだ。

心のどこかで「本当に大丈夫?」と問いかける声も自分の中にある。あえて背負い直した罪。世界を変え、人々の生活を変貌させた。沈んだ街には失われた日々や家、思い出、さまざまあるだろう。だれも、主人公たちのせいだなんて知らない。けれどこの先生きていく中でいくらでも、自分たちの選択のせいで失われてしまったものに直面していくはずだ。そのたびに心は摩耗するに違いない。

本当に、『大丈夫』なのか?

本当にこの先、この世界の秘密を抱えたまま、自分たちが幸せになれることを許容し、希望し、祝福することができるのか?

貴樹くん、あなたはきっと大丈夫。 どんなことがあっても、貴樹くんは絶対に立派で優しい大人になると思います。 貴樹くんがこの先どんなに遠くに行ってしまっても、 私はずっと絶対に好きです。 どうか どうか、それを覚えていてください。

フラッシュバック・5センチメートル。

 

https://www.youtube.com/watch?v=1X95eE2fwuc

 

新海作品で「大丈夫」というワードがきたら秒速を思い出す人も多いだろうが俺もそのひとり。 またしても「大丈夫」という言葉が立ちふさがってきたかと。

けれどどうやら今回ばかりは違うようなのだ。 劇場で鳴り響くフィナーレ曲「大丈夫」の歌詞は、まるでオー・ヘンリーの「賢者の贈り物」のように思いを捧げ合い、そして新海誠お得意かのように「世界」という言葉で幕が上がる。

この曲に宿る言葉の力はすごいと思う。ラストシーンにはじける感情を、アニメと音楽が相互補完しているかのようだ。言葉が絵を、絵が音楽を、音楽が言葉を、それぞれつなぎ合わせてこの物語の未来まで包み込んでいる。むせ返るような感傷と決断にまみれていてゾッとするほどのストーリーが、この曲をもって見事にまとめ上げられている。

「大丈夫」がもはや凶器かってくらい、その後の人生全部暖めてくれる祝福あるいは呪いあるいは宿命みたいに響く。

そこに関して言えば「秒速」と共通して言えることなのかもしれない。

この「大丈夫」の歌詞を読んだ時、「ああ、大丈夫だな」って冗談抜きに思えてしまったもんな。

帆高が陽菜と再会したときに「違う!たしかに俺たちが世界をかえたんだ!」と、手放しかけた世界の秘密を、その責任を、もう一度掴んでくれるのがなによりも嬉しい。罪を罪として背負い直して、だからあんなに張り詰めた表情で、坂の上で空に祈る陽菜を見たのだ。「大丈夫」になる覚悟を、決めてくれた。そうしなきゃ陽菜ともういちど向き合うことなんて出来ない。罰のない罪を背負うことは、ただのエゴに過ぎないかもしれない。けれど、罪悪を抱えながらももう一度、「世界」と戦う姿勢を見せてくれる。そうして終わるこの物語が本当に愛おしくて仕方ないのです。世界を変えたことを再認識したことは、見ないふりをする大人や社会への抵抗の姿勢が最後まで感じられる。慰めも欺瞞もはねのけて、自分の価値観で自分のしんじたものを守るために、世界を向き合い戦っていくエンディング。そして世界に償っていくエンディング。非道徳的なんだけど切実で、あまりにも10代の精神性に寄り添ってくれる物語すぎて、これは確実に、10代で出会っていたら人生変えられていたであろう作品だと、恐怖すら湧き上がってくるんですよね。(実際15の春に「秒速」を見て変えられてしまった人生ですが)

選び、生きていく。2010年台に蘇ったセカイ系の新しいかたち。

 

 

 

 

 

各種インタビューを読んでも、本作のこのラストシーンは意図的に仕組まれた、新海誠監督なりの美学を素直に反映していることが確認できる。小説版のあとがきを読んでも、「君の名は。」の大成功とともに浴びせられた心無い批判の声に向けてのカウンターとして制作されたような趣を感じられる。

「ずっと窮屈だなと思っている少年が、誰も言ってくれない、政治家も報道も教科書も先生も言ってくれない言葉を叫ぶんです」 -独占インタビュー!『天気の子』新海誠監督、「君の名は。」批判した人をもっと怒らせたい

実際「天気の子は」万事ハッピーエンドとは到底言えないラストを迎える。

けれど世界はこわれたりしないし、少々かたちを変えながらも対応して日々は流れていく。 丈夫だ。大丈夫だ。世界も、大丈夫なんだよ。 主人公がした決断は多くの人の思いを裏切ってしまうけれど、でも間違いなく現代社会で人々は叫びたがっている本質が、ここにはあるのだと思う。セカイ系という捉え方もされるけどこのメッセージは確実に現代社会のとくにSNS文化へのオブジェクション。ボーイミーツガールとしての「正解」と、監督自身が社会に申し立てたいメッセージをこんなふうに両立させることがすごい。

純粋なエンターティメントとしても楽しめるのに、 作品として内包する感情量やテクニック、作品としての社会的意義、とにかく「厚みがスゴイ」。

こんな挑戦的で、なのに原点回帰な超傑作を、大成功作「君の名は。」のすぐ次の作品として送り込んでくる姿勢が恐ろしすぎるんだよなぁ。

正直いって君の名はの大ヒットでなにかが変わってしまうんじゃないかと危惧していましたが、完全に杞憂だった。もうね。10代から20代にかけて10年も好きで居続けるクリエイターなら、もう一生追いかけられるなって思ってしまった。一生よろしく頼むよ新海。

 


 

以下、思いついた時に触るスペース

気になる部分を追記していきます。

・『天気の子』興行収入100億円突破! 新海誠インタビュー「世界を変える」

これはすごく内容が充実したインタビュー。「天気」が近年より凶暴に私たちの生活に降りかかるようになった実感から着想を得た話や、英題「Weathering With You」が宿す意味など、必読の内容。

 

・小説版第281頁の「結婚写真」は小説版だけのボーナストラック的なヤツで、嬉しいですね。