「正直どうでもいい?」

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もう一度「世界、っていう言葉がある。」が鳴っていた『天気の子』

小説 天気の子 (角川文庫)
新海 誠 KADOKAWA (2019-07-18) 売り上げランキング: 1

 

「天気の子」を見ました。

公開初日の夜、仕事あがりに映画館に駆け込んで、21:45開始の回。最もキャパのある1番スクリーンが満席だった。客層のばらばらだったけれど上映中は息を潜めてみんなが見守っているかのように、静かでどこか厳かな空気が漂っていた。素敵だなと思った。

2回目は小説版を読み終えてから8月14日のレイトショー。 なんとなく自分の中で気持ちを落ち着けてから、改めて確認するような感覚で。

 

思ったことを書き連ねていきたい。

前提としては、この映画を俺はメチャクチャ好きだってことなんですけど こんなに「好き」と言うためにいつもと違った勇気のいる映画ってすごいな。 測られてる気がしませんか?適性を。 でもそんな思いを抱えながらも「俺は、好き!」ってみんなが言っている、気がする。

それにしても、全然考えがまとまらなくて記事が全然書き上がらなかった。

見終えたあといろんな人の感想を読み漁りまくってしまい、もう自分の感想なのかだれかの感想をパクったのかもうわからない状態になりつつあるけれども。まぁでもこれ以上だれかの文章を読むとそれだけで満足してしまいそうでもったいないなと思ったので適度に切り上げて書き出します。

これは個人的な備忘録として、思いついた時に書き足したりあるいは書き換えたり、 好きなように使います。そしてまとまりもありません。

 


東京の風景

そもそも新海誠映画を取り上げて「背景がすごいですね」って当たり前なんですけど、その当たり前を生み出すのにどれだけの手間がかけられてるかって話ですよね。

なにかとこのあとも「君の名は。」と比較してしまうと思うんですけど、今作で描かれる東京って、薄汚いなとまず思う(言い方がひどい)。錆びたフェンス。半端に消えた電飾。転がるゴミ。下品な街並み。少年がうずくまっても気にもとめない冷徹な人々。管理されてない、奔放でありのままの風景。それら都会の暗部が、雨でにじんだ美しい光の中で、いやな存在感を放ち続ける。

そしてわざとらしいくらいにタイアップ先の企業の商品が登場する。あの謎の存在感を放つ『バーニラバニラ高収入!』のトラックと歌が出てきた時には思わず軽く吹き出してしまった。それはスポンサーのための商業的な側面もあると思う。けれど、この時代のそのままの空気を閉じ込めたような効果もあって、それがこの作品においてはめちゃくちゃ重要なことだと感じるのだ。狙い通りなのだろう。

君の名は。」に描かれる東京はキラキラと華やかだった。未来的で清潔な街並み、たのしい学校生活、放課後にはオシャレなカフェにだっていけちゃう。飛騨の街との比較のためでもあったと思うけれど、少女が夢中になって憧れるような、絶対の天国のような、そういう見せ方になっていたと思う。

天気の子は、2019年の東京がどんな姿をしていたのか。まるで記録するかのように、美しい部分も醜悪な部分も描く。街も人もけっして美しいばかりの世界なんかじゃない。

とくに今回は主人公サイドが現代日本貧困層としてほそぼそと生活を送るという設定上、暗部にあえてスポットライトを当てている。東京アンダーグラウンド、夜の街は冷たいね・・・

2019年のいま、ぼくらの生活を取り巻くもの。音や、映像や、食品、抽象的にしかならないがこの空気感のようなもの。いまのぼくらを形作るものが、間違いなくこの作品にはパッケージされている。清潔で美しい街を描くことのほうが、素人意見だが、きっと楽だろう。視界の邪魔をしない。余計なものがない。けれどあえてこんなにリアルで薄汚れた世界を描くのは、その必要があったからで、そして必然性がこのストーリーには確かにあったと思う。パンフレットの監督インタビューでも「オリンピックで東京が様変わりする前に、東京が変わってしまう話を描きたい」という一節があった。

「世界なんてさ―――どうせもともと狂ってんだから」

後述するが、この作品の核となるセリフだ。 狂った世界を突きつけるために、この作品は執拗なほどにリアルないまの世界を追い求めているのだろう。

なお、ぼくらを取り巻くとかなんだかんだと言ったが地方民なので東京の男になったつもりでこの文章を綴った。バニラカーとか1回しか見たことがない。 でもやっぱりこんな東京を見たあとでも、新海誠が描く『東京』はやっぱスゲェよ。ここで人の生活を営まれているという実感がこんなにアニメの風景で感じられるかね。


ぼくのジュブナイル、ぼくの"新海誠"

ジュブナイルという表現があってるかどうか。教育や教訓を重視する優等生なものではない青春物語、的な捉え方で自分は使っているけれど。

ラストシーンについてはあとで書くとして。

君の名は。」と同じく非常に強いエンターティメント作品であるが、もちろんキャラクターは違うしストーリーも違うし、根本的に作品が向いている方向が、まるで違う。そしてこれこそが「新海誠」の真髄なんじゃないかと、12年くらい新海誠に取り憑かれている自分は思うのだ。(というか「君の名は。」がド直球なだけで新海の基本は、"こっち"だろ。みんな知ってるね。)

当たり前だが「君の名は。」の商業的な大成功となり、もう100年後の日本のアニメ史にも名前がのっちゃってるんじゃないかっていう大記録を成し遂げた金字塔。 配給としても期待大、ハチャメテャなプレッシャーの中でこの「天気の子」は世に産み落とされたわけだが、こちらとしては

「えっまじで?こんな純度の新海汁をブチ撒けちゃってていいんすか?」

としか思えないくらい遠慮ない深海節を堪能できる映画となっていたことがまずびっくり。 すごすぎるでしょ。大ヒットの次回作なんて、ハードルも上がってるしいろんな制約も増えて、正直、どんな作品が出来上がるのかと心配だった。なんか制作もギリギリだったようだし。ところがなんの心配もいらなかった。

最高の映画だ。

最高の、新海映画だ。

様々な点で、新境地と原点回帰が見られる。 もちろん1本のアニメ作品として抜群の出来なんだけど、過去作を踏まえてみると本当に多層的な楽しみ方ができる。 とくにクライマックスで見せつけられる光景、言葉、決着――― あまりにも、あまりにも眩しくなってしまう。これは呪縛を打ち破った「君の名は。」のラストシーンとはまた違った感動。「秒速」でもいいし、セルフオマージュでもあると思われるいくつかのシーンなんかは「雲のむこう、約束の場所」を想起させる。

その上であの映画ではたどり着けなかった結末を、当時の新海誠では描けなかったであろう強度で突きつけられてて、「君の名は。」とは違った形の敵討ちみたいな感じだ。東京の街、並走する電車でガラスごしに目が合った瀧と三葉のカタルシス。それと似た感覚があるのだ。俺の中では、過去の様々な作品がこの「天気の子」が巡り合い、それぞれがまったく違う光を放ち始めているのだ。

そもそも「雲のむこう」はテーマとしてもかなり「天気の子」と関連性があるように思う。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=OCO-csVHouo&w=560&h=315]

「サユリを救うのか、世界を救うのかだ」

ヒロインと世界を天秤にかける、まさにセカイが俺たちの心臓を貫く作品だ。セカイ系といえば「ほしのこえ」だろうがいま概念と取り出すとより明確にセカイ系のイメージが色濃いのは「雲のむこう」なんじゃないかと思う。

そう、巡り合ってしまったんだ。あの頃の新海誠に。 それが2019年の夏、全国何百という映画館で大スクリーンでなんて、こんな贅沢なことがあるだろうか。この現実にしびれてしまうんだよな。あまりにも原液のままの新海誠なのだ。けれど全てがアップデートされている。完璧なエンターティメント作品として差し出された「天気の子」。なのにひとくちかじりついたら中から実家の豚汁の味が滲み出てきたみたいな感じだ。

「え、なにこの映画、気持ち悪くない?」 「なんでこんなエンディングになっちゃうの?」 「こんなのってアリ?」ってなる人も当然いると思うんですよ。 というか自分自身が、こんな新海汁100%みたいな映画がこの夏最大の話題作!みたいなノリで全国ロードショーされてることにめまいすら覚える。だ、大丈夫なのか?

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟

いくつかのインタビューを読んだ。それから小説版のあとがきも読んだ。 「君の名は。」のビッグヒットを経て、称賛も受けたがそれ以上に批判されることの痛みが印象深く監督のなかに残ったようだ。 そしてより賛否両論を巻き起こす、嵐の中へ飛び込もうと決断したというドM監督。願いは叶い、まさかと思うほどに新海誠すぎる最新作と相成った。けれどきちんと大多数に差し出せるだけのラッピングが施されている。

本作はボーイミーツガールの王道。この輝きの魅力がなによりもデカい。 この王道を、基礎から徹底的に叩き上げ練り上げ完成させ、そしてブン投げてくるんだからそりゃオタクは参ってしまう。そしてキラキラ青春ラブストーリーを期待して見に来る一般層もおそらくキャッチできている。

たしかにオタクがゴチャゴチャ語りたくなる多層構造とカタルシスが間違いなくある。 けれどそれと同じように、本当に、純粋にエンタメなのだ。 突き抜けて出来が良い、見ていて楽しい。それでいて見終えたあと、ちょっとあと引くミステリアスな魅力。エンドロールまで見守って、劇場にライトが付いて席を立つ。スマホの電源を入れながら段差を降りていき、内容を反芻してみる。いや待てよ?・・・この結末、なんかおかしくないか? 俺はそういう体験を「君の名は。」しかまだ新海作品を知らない人にしてほしいなと思う、めんどくさい人間だ。

こんな俺好みの作品がこの世に存在してていいのか? これ以上のフィット感、この先の人生で出会えるのか?

そんな心配まで出てきてしまうくらい、すごい。「君の名は。」の場外ホームランみたいな圧倒的多幸感のあるハッピーエンドも最高だ。けれどこの、ちょっとはっきりとした感想がすぐに出せない靄がかった感じ・・・その上で何層にも折り重なったドデカ感情。いまこうして文章を叩きながら思い出しても、思い返すほどにむせ返るような感傷と決断にまみれていてゾッとしてしまう。選び、生きていく。2010年台に蘇ったセカイ系の新しいかたち。こんなのさぁ、好きに決まってるんだよなぁ。

おかげでネットでは2000年台初頭に発売されたPCゲーム版「天気の子」の集団幻覚に陥っている始末。

https://twitter.com/Frozen_Frog_8/status/1153320286843887623

ギリッギリわかるようでわからないラインの年代なんだけど、「ありそう」感がすごい。そしてこんなにオタクたちがおおはしゃぎしている映画なんだけど、本当に「君の名は。」から新海誠を見だした若い人はこの映画を好きになってくれてる?好きになってくれてるといいなぁ。

とりとめのない項目となってしまったが、つまりは、「君の名は。」の次回作としてこの2019年にこの作品が公開されたことの意味や価値、そういったものが、27歳になった今の自分にとってすごく大きな意味を持つ、ような気がする、って話です。

クライマックスの展開については後述。

 


対話するキャラクターたち

先程も貼ったインタビューをもういちど。

「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟

「そんな大人たちの憂鬱を、軽々と飛び越えていってしまう、若い子たちの物語を描きたいなと強く思いました」という部分。それ〜!!

本当に、躍動する若い力を感じさせる映画だった。

そして個人的には、「対話してるなぁ」と思った。 対話する。 過去もっとも対話した新海映画だったのではないだろうか。当たり前のコミュニケーションなのにね。結果どうなるかはさておき・・・。

新海印の効果的なモノローグは今作も健在なんだけれど きちんと会話して、確認して(ときどき先走るが)、ストーリーが進んでいく。キャラクター同士のつながりが精神論に依るところではなくきちんと現実の結びつきとして描かれる。地味にこれが革新的。

なによりクライマックスで二人が空の上で叫ぶセリフ。 ようやくたどり着いたと、思わず泣けてしまった。 この言葉を言えなくて、確かめることができなくて、いまなお春の亡霊が参宮橋駅周辺の踏切あたりにさまよっているんだぞ。

ひとりで悩む、ひとりで想う。孤独に苛まれながらも、どこか孤独に癒やされ救われていくような時の流れは、これまでの作品でも印象深い部分だ。近年の作品へゆくにつれそれは少しずつ変わっていき「君の名は。」ではより開放的な世界となった。ただ本作は「君の名は。」と比べても、従来通りの新海ワールドなのに人物相関図の力強さは最先端なため、よりこの要素が際立って感じられた。

新海映画に特徴的なモノローグは、ときに女々しくときにナルシシズムも含み、作家性を強く反映すると同時に反発も抱かれてきた要素だと思う。本作は過去作と比べて比較的少なく、それゆえにその独白に混められた願いの深さに、じっとりと胸を刺されるような心地がある。

「これ以上僕たちになにも足さず、僕たちからなにも引かないでください――――」

あのラブホテルでのシーンの、あまりにも素朴で純粋な祈りの言葉。 新海誠は、映像で詩を生み出してきた。観るものの胸にいくつもの詩を生み出す起爆装置のようなエッセンスが持ち味だと思っている。 そういう意味ではキャラクター関係は作品を重ねるごとに強固になっているような感覚があるが、根底にある作家として魅力はなにも変わってはいない。 ただ先にも書いたように本作はメインキャラクター同士がきちんと対話をする。 言葉を紡ぐことで他者と向き合う覚悟を己に課しているような、きちんと想いを相手に届けなくちゃ始まらないんだと言い聞かせるような作品のように思う。コミュニケーションの強度がこれまでとは性質が異なっているような。

 

ざっくりとキャラクターについて書く。まず主人公ズ。 主人公の帆高は島を飛び出してホームレス。 ヒロインの陽菜は親を無くし、追い詰められて未成年ながら水商売に手を染めようをする。

いや、生活困窮具合がすごいぞ!

でもこれがきっと2019年日本のリアル。夏なのに冷たい雨の降る東京の夜。その攻撃性に震え、身を寄せる少年と少女。疑似家族モノの要素もある本作にぴてこの苦境をしっかり魅せておくのも重要だったのだろう。 それに、クライマックスで帆高と陽菜がとった決断。「世界に愛されない僕たち/私たち」という確かな実感が、あの選択肢を取らせた一因となっていることも否定できない。

いや。苦境に立たされているのは主人公の彼らだけではない。 コメディパートのほんわかとしか空気で忘れがちだけど、他のキャラクターもシビアなリアルを抱えている。

安定しない職につきながら亡き妻の義母との関係にも頭を悩ませる中年、須賀圭介。 絶賛モラトリアム、就職活動がさっぱりうまくいかないもだもだ女子大生、夏美。 帆高の東京生活を支え、そして走り出した彼を最大限バックアップするキーキャラクターである二人も、それぞれ悩みを抱えている。 (この二人の詳しい描写はむしろ小説版で補完されているので読んでほしい。とくに終盤で、自らのモラトリアムがいまここで終了したことを確信する夏美さんは名シーンすぎる)

 

まだまだ読みとけていない部分も多いが、やはり須賀圭介というキャラクターが背負うドラマ性だったりセンチメンタルだったり下らなさのようなものが、本作では1番人間くさくてたまらない。本作では1番好きかもしれない。須賀圭介、最高だよ。

大人として帆高をときに支えときに立ちふさがる。主人公にとってある種父親のような存在として描かれる。明確な「大人」だ。ただ垣間見える描写をたどるに、一筋縄ではいかない大人の苦しみがにじみ出ているのを感じる。

多くの人が指摘している通り、妻を亡くした彼が映画冒頭でぽつりとこぼした「誰かの命の恩人になったのは初めて」というセリフは、意味を知って聞くと泣けてくる。いまだ言えない傷がささいなことで刺激されひとりの男を苛めている。

喪失を背負った情けない大人の男といえば「星を追う子ども」で登場したモリサキを思い出す。妻を生き返らせるために策を講じた彼を待っていた運命は、主人公アスナの旅でその痛みが浮かび上がった。いつまでも過去にすがることしかできなかった、寂しがりの哀しい男の話だ。

単純に比較することもナンセンスだとは思うが、須賀はモリサキとはまた違った「喪失に抗う大人像」を見せてくれたキャラクターだった。小栗旬の演技もとても好み。やさしい部分とめんどくさがってる部分が両立されている。かっこよくも情けなくもあって、大都会で帆高を拾ってくれたのが彼でよかったとも思うし、帆高を通じて彼の人生も少しずつ好転していった実感がたしかにあったりもする。やっぱ、少年のがむしゃらな姿に心打たれる大人って、いい大人なんだよな。大人になりきれてない大人は、みんなそういうことになっちゃうんだ。

保身に走ってしまうことや、ひとりの犠牲で社会が正常に回ることを、仕方のない正しいことだとして飲み下す。けれど終盤で帆高が大人たち全員に向けて、「邪魔をしないでくれよ」「俺はただもう一度、あのひとに会いたいんだ」と素直な言葉を叫んで、そして警官をブン殴って帆高を屋上へ向かわせる流れ!王道だけど熱いなぁ!

この映画「大人はわかってくれない」という少年期のワガママな鬱憤が原動力になっているわけじゃないですか。結局須賀さんだって、3年後のエピローグで帆高に向けて大人としてのセリフを吐いてしまう。そりゃそうだよだって大人だもの。でも。社会的悪人になってでもあの瞬間に帆高を屋上へ向かわせたことで、須賀さん自身の救いになってくれたらいい。きっとそうであってほしい。大切な人を守れなかった自分を重ねた情けない投影であっても。

帆高を「少年」と呼んでいましたが、エピローグでは「青年」と呼びかけるかたちに変化していたのが、彼なりに帆高の成長を認めているのと大人の入口に立った少年へのエールのようでもあり、大好きな演出。

 

夏美さんは・・・・・・ゲーム版だったらまっさきに攻略に向かうな・・・。 個人的には本田翼の演技もそこまで気になるものではなかったし、キャラクターとしてもメチャクチャ惹かれるものがあった。お姉さんにからかい口調で「いま胸みたでしょ」ってなじられたくない16歳キッズおるか?全人類の夢。

ともあれモラトリアムに苦しむ彼女の苦しみはアニメではどこかコメディ的に消化されていた面もあり、小説版での掘り下げがもっとも効果的な人物は夏美さんだと思っている。 先にも書いたけども小説版242頁(第9章ラスト)の独白は完璧と言っていい。これが読むことで本作における夏美さんの役割がより際立つ。アニメ本編ですこしでもモノローグ的に入れてもらえなかっただろうか・・・。

「私はここまでだよ、少年」

「私の少女時代は、私のアドレセンスは、私のモラトリアムはここまでだ」

「少年、私はいっちょ先に大人になっておくからね」

この下りはメチャクチャ刺さる。須賀さんは大人の立場から少年たちの選択を見つめていくポジションであることに対して夏美さんはこの夏をもって大人になったというキャラクター。気持ち悪い発想をすると主人公は別ヒロイン(陽菜)を追いかけながらもこの夏美さんという超絶美人の人生において大きな痕跡を残すことに成功しているので実質攻略完了みたいなもん。

まぁともかく、キャラクターについては現状補完できる資料が小説版くらいしかない(あとで資料集とか色々出るとは思うが)ので間違いなく読んだほうがいい。

 


 

もう一度「世界」と向き合うラストシーン

 

https://www.youtube.com/watch?v=ldRznIwZeBc

 

「世界、っていう言葉がある。」 そんなモノローグで新海誠は監督人生をスタートさせている。初監督作品「ほしのこえ」の冒頭の一節だが、やはり新海誠と「世界」は切ってもきれない関係なんだろう。

そもそもここで言う世界とはなんだろうか。所詮10代の少年少女が感知しうる世界の範囲などたかが知れている。その手で触れられるものも限られているし、その力で変えられるものなんて一体なにがあるというのだろう。 それでも彼らが口にする世界という言葉を安易だとか愚かだとかで片付けたくはない。 本作「天気の子」を見た後だと「世界」という言葉が内包するあらゆる要素が、いかに少年と少女を結びつけ、そしてこの先彼らを苛めるか、非常に過酷なラストシーンだったと個人的には認識している。

感じとしては、前向きながら後ろ歩きしちゃったみたいな。違うか。

やはり議論の焦点となってくるのはその終盤での彼らの選択だろう。 ボーイミーツガールとしては正解。でも、じゃあ他の視点ではどうだろう?

 

映画を最初に見た時、ラストシーンで空が晴れたと思った。2人が再会したときに雨がやんだように思った。2度めに見た時確認したけれどそれは勘違いだった。雨は降り続けていたし空は晴れてなんかいなかった。当たり前だろう。でも、2人は再会したとき、喜びよりもまず張り詰めたような表情を見せるのに気づいた。その後笑顔をみせてくれるけれど、あの膨大な感情を前に途方に暮れたような、あるいは真摯に渇望するような、切なげな表情が頭から離れなかった。

身勝手に願いを叶え、世界の形を変えてしまった。 きっと彼らはその責任から逃げようともしない。

ラストの再会の直前、ヒロインの陽菜は空に祈っていた。彼女はかつて空に祈ることで晴れにできる、100%の晴れ女だった。けれど、あの空からふたりで廃ビルの屋上へ戻ってきた時に、巫女としての力は失われていると思う。首のチョーカーが壊れたこともそれを表しているのだけど。

(チョーカーについての考察はたくさんあるけどここが好き。 陽菜さんのチョーカーが愛おしくてもう限界でござる。 ——母親との別れの物語として見る『天気の子』 )

 

じゃあなんで俺が最初にこの映画を見た時にラストシーンで「晴れた」と錯覚したのか。観察力が足りてなかった。そうです。でも2回めで見た時、勘違いなだけじゃないなと思った。あきらかに画面が明るくなって、ふたりの表情は煌めいて、フィナーレの『大丈夫』が流れ出して、・・・・・・雨が降っていても、世界はこんなに美しい。その雨が2人の罪の象徴だとしても。雑な捉え方をすると、この作品の言いたい事のひとつにそういうメッセージもあると思う。つまりはボーイ・ミーツ・ガールの魔法。少年と少女のひたむきな思いが、ほんのすこし、世界を変える。巫女の力なんかじゃない。ファンタジーが描ける最も強いファンタジー。なんでもないぼくらが、ありのまま、願ったままで世界を変える。感じ方ひとつで視界は様変わりする。そうだろう。フィクションとはそうであればいい。荒唐無稽だろう。けれと、元来人々がもつ、奇跡を起こすチカラを信じる。そういうエンディングのようにも感じられるのだ。

別に特別な能力なんてない。自分たちの力で世界を変えた。 東京を海に沈めた。 そうじゃない。

特別な力なんかなくたってあそこで2人は再会できたことも自分自身の力で叶えた現実だ。自分たちの意思で歩いていく。背負って生きていく。この強さを、世界は祝福する。特別な力なんてなくたって世界はきらめく。それができるだけの生命力や本来、少年少女は持っているのだ。というメッセージのように受け止めた。

と、とてつもなく曲解していることはわかっていますが。

世界なんてもともと狂ってる。けれどそんな真実を、そんな慰めを、最後の最後ヒロインの再会した瞬間に打ち消した。「違う!たしかに俺たちが世界をかえたんだ!」と。まるでそうご都合主義かもしれないし、見ている側が都合よく解釈しているだけに過ぎないのかもしれない。

けれどいくつもの可能性や解釈が折り重なって作品は形づけられる。主人公が願った世界のように、途方もなく、俺はこの作品のそんなメッセージを愚かにも信じてしまう。無数の罪を背負い、わがままを貫き通して、それでも彼らは世界から祝福されたのだ。 いやむしろ世界から祝福なんかされなくたって生きていける。 自分の力で、自分の決断で、世界を変えて生きいける。「大丈夫」なんだと、そう信じてしまう。物語で描かれる少年少女に向けた、最大級のエールと最大級の祈りのようなものを感じる。

セカイ系のあたらしい着地点だと思う。セカイ系が示せるハッピーエンド、こんなのあったんだ?ってなる。発見。ハッピーエンドじゃないかもしれない。でも、セカイとぼくらの関係性をこんなふうに纏めてしまったのはやはりすごいよ。この万福の肯定感。こんなに「大丈夫」って言ってくれる新海作品かつてないよ…………。

でもネガな意見も芽吹いてくるのだ。

心のどこかで「本当に大丈夫?」と問いかける声も自分の中にある。あえて背負い直した罪。世界を変え、人々の生活を変貌させた。沈んだ街には失われた日々や家、思い出、さまざまあるだろう。だれも、主人公たちのせいだなんて知らない。けれどこの先生きていく中でいくらでも、自分たちの選択のせいで失われてしまったものに直面していくはずだ。そのたびに心は摩耗するに違いない。

本当に、『大丈夫』なのか?

本当にこの先、この世界の秘密を抱えたまま、自分たちが幸せになれることを許容し、希望し、祝福することができるのか?

貴樹くん、あなたはきっと大丈夫。 どんなことがあっても、貴樹くんは絶対に立派で優しい大人になると思います。 貴樹くんがこの先どんなに遠くに行ってしまっても、 私はずっと絶対に好きです。 どうか どうか、それを覚えていてください。

フラッシュバック・5センチメートル。

 

https://www.youtube.com/watch?v=1X95eE2fwuc

 

新海作品で「大丈夫」というワードがきたら秒速を思い出す人も多いだろうが俺もそのひとり。 またしても「大丈夫」という言葉が立ちふさがってきたかと。

けれどどうやら今回ばかりは違うようなのだ。 劇場で鳴り響くフィナーレ曲「大丈夫」の歌詞は、まるでオー・ヘンリーの「賢者の贈り物」のように思いを捧げ合い、そして新海誠お得意かのように「世界」という言葉で幕が上がる。

この曲に宿る言葉の力はすごいと思う。ラストシーンにはじける感情を、アニメと音楽が相互補完しているかのようだ。言葉が絵を、絵が音楽を、音楽が言葉を、それぞれつなぎ合わせてこの物語の未来まで包み込んでいる。むせ返るような感傷と決断にまみれていてゾッとするほどのストーリーが、この曲をもって見事にまとめ上げられている。

「大丈夫」がもはや凶器かってくらい、その後の人生全部暖めてくれる祝福あるいは呪いあるいは宿命みたいに響く。

そこに関して言えば「秒速」と共通して言えることなのかもしれない。

この「大丈夫」の歌詞を読んだ時、「ああ、大丈夫だな」って冗談抜きに思えてしまったもんな。

帆高が陽菜と再会したときに「違う!たしかに俺たちが世界をかえたんだ!」と、手放しかけた世界の秘密を、その責任を、もう一度掴んでくれるのがなによりも嬉しい。罪を罪として背負い直して、だからあんなに張り詰めた表情で、坂の上で空に祈る陽菜を見たのだ。「大丈夫」になる覚悟を、決めてくれた。そうしなきゃ陽菜ともういちど向き合うことなんて出来ない。罰のない罪を背負うことは、ただのエゴに過ぎないかもしれない。けれど、罪悪を抱えながらももう一度、「世界」と戦う姿勢を見せてくれる。そうして終わるこの物語が本当に愛おしくて仕方ないのです。世界を変えたことを再認識したことは、見ないふりをする大人や社会への抵抗の姿勢が最後まで感じられる。慰めも欺瞞もはねのけて、自分の価値観で自分のしんじたものを守るために、世界を向き合い戦っていくエンディング。そして世界に償っていくエンディング。非道徳的なんだけど切実で、あまりにも10代の精神性に寄り添ってくれる物語すぎて、これは確実に、10代で出会っていたら人生変えられていたであろう作品だと、恐怖すら湧き上がってくるんですよね。(実際15の春に「秒速」を見て変えられてしまった人生ですが)

選び、生きていく。2010年台に蘇ったセカイ系の新しいかたち。

 

 

 

 

 

各種インタビューを読んでも、本作のこのラストシーンは意図的に仕組まれた、新海誠監督なりの美学を素直に反映していることが確認できる。小説版のあとがきを読んでも、「君の名は。」の大成功とともに浴びせられた心無い批判の声に向けてのカウンターとして制作されたような趣を感じられる。

「ずっと窮屈だなと思っている少年が、誰も言ってくれない、政治家も報道も教科書も先生も言ってくれない言葉を叫ぶんです」 -独占インタビュー!『天気の子』新海誠監督、「君の名は。」批判した人をもっと怒らせたい

実際「天気の子は」万事ハッピーエンドとは到底言えないラストを迎える。

けれど世界はこわれたりしないし、少々かたちを変えながらも対応して日々は流れていく。 丈夫だ。大丈夫だ。世界も、大丈夫なんだよ。 主人公がした決断は多くの人の思いを裏切ってしまうけれど、でも間違いなく現代社会で人々は叫びたがっている本質が、ここにはあるのだと思う。セカイ系という捉え方もされるけどこのメッセージは確実に現代社会のとくにSNS文化へのオブジェクション。ボーイミーツガールとしての「正解」と、監督自身が社会に申し立てたいメッセージをこんなふうに両立させることがすごい。

純粋なエンターティメントとしても楽しめるのに、 作品として内包する感情量やテクニック、作品としての社会的意義、とにかく「厚みがスゴイ」。

こんな挑戦的で、なのに原点回帰な超傑作を、大成功作「君の名は。」のすぐ次の作品として送り込んでくる姿勢が恐ろしすぎるんだよなぁ。

正直いって君の名はの大ヒットでなにかが変わってしまうんじゃないかと危惧していましたが、完全に杞憂だった。もうね。10代から20代にかけて10年も好きで居続けるクリエイターなら、もう一生追いかけられるなって思ってしまった。一生よろしく頼むよ新海。

 


 

以下、思いついた時に触るスペース

気になる部分を追記していきます。

・『天気の子』興行収入100億円突破! 新海誠インタビュー「世界を変える」

これはすごく内容が充実したインタビュー。「天気」が近年より凶暴に私たちの生活に降りかかるようになった実感から着想を得た話や、英題「Weathering With You」が宿す意味など、必読の内容。

 

・小説版第281頁の「結婚写真」は小説版だけのボーナストラック的なヤツで、嬉しいですね。