「正直どうでもいい?」

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「すずめの戸締り」感想メモ

11月12日、公開二日目に「すずめの戸締り」を見てきた。そしてこの記事を書き上げたのが11月30日。時間かかりすぎである。ネット上でたくさんの感想、評論が出てきてそれらを好んで摂取して行き、たぶん一か月もしたら最初に持った自分オリジナルな感情を忘れてしまいそうだから今のうちに残しておこうと思う。

ネタバレ含みますのでご注意を。

 

suzume-tojimari-movie.jp

 

①アフター3.11として

この映画の強烈な個性として「3.11」を真正面から扱ったこと、哀悼とともにそれを描き、かつエンターテインメントとして纏めあげていることだと思う。

公開中に「ああ、悼むための映画だなぁ」と後半感じていたところ、パンフとか読んだらまんま「悼み」というのがキーワードとして用いられていた。ほ、ホントなんだよ、俺も自力でそのワードにたどり着いたんだ!って気持ち。

 

2011年は「星を追う子ども」が公開された年だった。後述するが、この作品と「すずめの戸締り」の関連は強いと個人的に思う。

君の名は。」「天気の子」は言わずもがな、「言の葉の庭」にはディザスター映画的な要素はないけれど、そもそも企画の根本として、今ある日常風景がいつ損なわれてもおかしくない感覚に囚われた新海監督が、当時の風景をアニメーションで緻密に残そうという意図があり企画されたものでもあったという。

こうしてみると2011年以降の新海誠監督の映画において、東日本大震災はおおきな転換点をもたらしている。それはもう新海作品に限らず、日本のエンタメの裏テーマとしていろんな作品に落とし込まれた要素だと思うけれど。

 

「すずめの戸締り」は真正面から3.11を描いた。事前にテレビ放送もされた映画冒頭のすずめの夢の世界の描写で、建物に船が乗っかった奇妙なカットが映されていた。なんであの時にピンとこなかったんだろう。津波被害を示すあれだけアイコニックな光景だったのに。あれを、当時二ュースやネット記事でさんざん見たのに。あの船を冒頭で描いたのは3.11を描くという決意表明だったのだ。背負うものを冒頭で見せていたのに、そうと気づかずのこのこと無防備に映画館に行って、後半であの船の意味に気づいた。なんで忘れてたんだろうな…まじで…

いくつかのテーマの柱はあるが、一番強固にこの作品を支えている本質は、3.11を乗り越えようとするこれからの時代の若者の姿なのだなと思う。

 

②自分探しのロードムービー

いまいる場所はどこなのか。自分はなにものなのか。

九州から東北までを駆け抜けていくロードムービーな側面からも、そのクエスチョンがつねに主人公にそして我々に投げかけられているような感触がある。王道の「自分探し」「自分との対話」といったところもかなり直接的に終盤描かれていく。

すずめが震災孤児だという事が明かされたことで、それまでやや唐突に感じていた主人公の行動原理でがスッと飲み込めたのはうまい仕掛けだったなと思う。

すずめの無鉄砲な行動も、「死んだってかまわない」と即答する場面も、「私が要石になる」発言も、生者には立ち入れない常世に突っ走っていくのも、そもそも彼女のなかの「生きる価値」がすこぶる低いことを表してる。肝が座ってるというより、自分を大切に扱えていない感じ。

そして物語の最終盤、まさにクライマックスが秀逸だった。まさにいま悲劇のさなかにある自分を、どう救ってあげられるか、どんな言葉をかけてあげられるか、そこに慎重に言葉を紡いでいくしぐさに、言葉を尽くそうとしてくれている姿勢に、たいせつなやさしさをもらえたような圧倒的な肯定を感じられたのがとてもよかった。自分の生きる意味を探すための物語だったのだと思う。(テイルズオブジアビスか?)

新海映画といえばモノローグだが本作ではそれもかなり控えめだ。パッと思いだせるのって眠っている宗太が自分の体が凍り付いていく悪夢を見る場面くらいか?

その代わり物語の核として自らとの対話というのがこのピークとして設計されており、それはダイアローグでもありモノローグでもあるなと感じる。

 

それにしても子供時代のすずめの演技も素晴らしかった。それまで涙をこらえられていたのに、このときの演技があまりに健気で頑固でひたひたと涙があふれてきた。心配と不安で押しつぶされそうなのに母親を気丈に想っている、強がりとプライドを感じる演技だったな。

 

ただ、ロードムービーの大きな魅力であるいろんな風景を駆け抜けていく冒険感について。とくに前半は行く先々で廃墟へ赴き戸締りをしていくのがルーティン化していて、遊園地のあたりで「またか」なところはあった。そのぶん、後半で芹澤カーが懐メロかけながら北上していくのが気持ちよかったけど。

エンディングでは帰りがけ?に各地を再び訪れていく光景があったのもうれしい。この作品、ちゃんと再会できるんだよ…!!!!

 

 

③ガール・ミーツ・ボーイとしていい意味で軽い

この作品はさんざん新海誠作品のアイキャッチとして多用されてきた「ボーイミーツガール的なもの」におけるすれ違いロマン或いは呪いを脱却していたな、と感じる。いちおう恋愛感情的な描写はあるが、性的なニュアンスに乏しいし、爽やかでささやかだ。

特にラストシーンでとくにタメもなく再開シーンが描かれた事で確信した。以前の新海誠作品だったら遠くから君を思おう、いつかの再開の約束をしよう、ってんで終わるのはせいぜいだったかと思うが。

勿論、恋愛感情が原動力となったストーリーでもあったかと思うが、宗太が当初は女性キャタクターだったという監督のコメントもある通り、必ずしもそれだけで無い。前述した「自分探し」への旅に誘われていくことが大きな魅力だと思う。

 

とは思うが、新海誠監督が男女のすれ違いに執着しなくなっていることや、各種インタビューでそれらから興味が薄れていることに言及しており「おいていくな、俺を…」という悲しみに襲われてしまう。そういう男のセンチメンタル、というか童貞臭みたいなのが作家性と思っていただけど、そればかりを提供されたらいま新海監督が目指そうとする国民作家から遠ざかると言えばそうなのかもしれない。そのうえで、「新海、国民作家なんて目指すな、俺たちの慰めの物語を作り続けてくれ」という悲しみに襲われるループ。

 

Twitterで草鈴/鈴草検索するとカップリング的に女性ファンがついているようだし、ある意味では臭みが抜けてよかったのかもしれない。芹澤という魔性の男も生まれてしまったし、キャラクター映画としての強度はやはり強いなと思う。

 

 

④「星を追う子ども」のリバイバルとして

悼み、というキーワードから連想される過去作としてはやはり「星を追う子ども」だろう。監督の作品のなかでも唯一、商業的に成功したとは言い難い作品ではあるが、そもそも2011年に公開された作品である点からして、因果だ。

この作品が公開されたときの空気感も覚えている。名古屋でも1館でしか上映がなくてでかけたが、やはりまだ震災の空気を引きづっていた。「死者の復活を願う旅」とか「さよならを言うための旅」とか、そういう作品のテーマを覆い隠すくらいの衝撃的な悲しみのさなかだったようにも思う。

故人をよみがえらせようとする森崎の人間臭さ、執着、狂気といったのは素晴らしい描写だし、離別に実感を得られないまま旅にでた主人公が道中で「さよなら」の意味をようやく理解できるという筋書きは非常に好きで、見逃せない一本だと思う。滅びた古代都市とか、水中に沈んだ石造りの町とか、そういうモチーフも大好きな作品。

「すずめの戸締り」と「星を追う子ども」はたしかに共通点が多いし、リバイバルという意識が働いているのは納得がいくところ。「星を追う子ども」という作品に宿されたメッセージと、その公開直前に日本を襲った悲劇と、その後の10年間の新海作品の総決算というムードがある。とはいえ、個人的に新海誠監督作品のこのタイプの気負い方を求めていたわけではないので、合わせて「星を追う子ども」も見てね、という感じだ。決してプロトタイプではないんだ、あの映画は。

 

 

⑤震災を扱う手つき

全体的にこの作品の気合の入りっぷりはすごくて、天気の子のときのような「口にできないようなワガママを世界に突き通す」ような感触というより、「今、俺が、これを描かなくては」というような監督の気負いがバシバシ伝わってくるフィルムでもある。背負うな、国民作家を!・・・いや、背負うんだな、新海・・・。

まぁしかし、この作品で危ういなと思う明確な点がひとつあって、これは正直自分でもどう扱えばいいのか正解も見えないんだが、3.11という歴史的悲劇を作中では「閉じ師が防げなかった災害」としてわりとはっきりと言及してしまったこと。

地震を起こす「ミミズ」は結局とのところ超常現象であることは変わらず、地震が起きる予兆を視覚化したものとして問題ないと思うけど、作中の人間の失敗が、現実の大災害に結びついているのがかなり危うい気がする。

 

もしかすると一連のアレコレが人災であるという側面も踏まえてこの設定にしたのかもしれないが、視聴中も「この設定でいくと、現実とフィクションの境界をはき違えるなと怒る人がいそうだな」と脳内インターネット住民がひやひやしてしまった。自分自身がそうとらえるかどうかというより、そう突っ込まれても致し方ないような”隙”が放置されてしまっていることの心配だ。そしてこれだけの大きなギミックなのに、それを起してしまったのはたぶん宗太の父親だろうな…くらいの感じでしか作中では描かれていない。

主人公のすずめも能力を持つものとして、実は閉じ師の家系で、3.11を防げなかった閉じ師とは母親だった、みたいな胡散臭いyoutuberが唱えそうな説も物語のノイズを減らすという意味合いでいえばひとつの手だったのかもしれないと考えてしまう。(母親を失った悼みに、肉親があの悲劇を防げなかったという重圧が重なり、まったく違うストレスがかかる作品になりそうだが)

 

3.11を聖域として、フィクションで触れることは断じて許されない出来事にしてしまうのもどうかなという、正直に言えば当時愛知県に住んでいて大きな被害がなかった自分だからこそ「これくらいはいいでしょ」と能天気に言えない感覚や、きっとたぶん思い図らなければならないのでは?という戸惑いがある。当事者意識の無さが、逆にこの点への言及をしづらくしているのが本音だし、このノイズはたぶんずっと消えないままかもしれない。まぁ、リアルタイムであのいや~な時間を生きた時代の人間としてのフラットな感覚でこの作品を鑑賞したいところ。

だからこの作品は嫌いだ、いやだ、微妙だ、って話をしたいのではなく、この作品をどうとらえるべきか考えることが(大層なこと言ってしまえば)3.11以降の日本をどう生き抜くかという我々の生活と強烈にリンクする部分であり、エンターティメントをどう考えるかという思考実験にもなる気がするんだよな。

その上で、この作品は明確に未来を夢見る。そして叶えていく。また会うと約束すれば会えるし、私こそが、過去の自分の明日なのだという、これを言い切る強度と度胸がこの作品の良さだな。

 

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そんなところか。思いついた順に適当に書き散らしてしまったが、まだ小説版も読めていないので、ここからさらに考えを深めようと思います。

新海誠監督の新境地でありつつ、自分のなかで期待していた新海誠像から少しだけ離れた、過去最高の共感性を秘めた作品、というのが自分のなかの今のところの総括。

 

 

 

 

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1/9追記

ららぽーとの映画館で2回目の視聴。公開から2か月たっているのにほぼ満席、はしっこかかなり前方の席しか空いてなかった。きっちりとファミリー層からカップル層まで行き届いているのを感じた。最初に劇場へ行ったときの「新海誠に物申す」面のファンはあまりいなかったが、一人そんな調子で参加していた。

入場したらば目当ての特典だった環さんの来場特典小説がもう配布終了していた。いろいろと残念。

とはいえ、2回目の視聴であらためてこの映画のロードムービーとしての魅力が浮き上がってきたように感じる。

個人的に映画の2回目ってとくに好きなシーンをもう一度みたいというモチベーションであることが多く、それ以外の場面ではなんならあくびが出てもおかしくないのだが、この作品はつねに舞台が移り変わっていくから全く退屈しなかった。

あと、テーマの重たさを初回には強く感じすぎてしまった節があったかもしれない。

「死んでもいい」といえてしまうすずめにとってのある種の自分探しのような、この作品ならではのミニマルなテーマのなかで揺れ動く感情や起伏というところにもうちょっと視線をやることができて、もっとポップにこの作品を受け止めることができた。後半のドライブシーンはほんと気持ちいよなぁ。

それはそれとして環さんの小説、きっとブルーレイの限定版ブックレットとかに掲載されるだろうからそれまでお預けである。収録されるよね?さすがに…