「正直どうでもいい?」

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この物語はフィクションです。「さよなら絵梨」

 

 

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2022年4月11日の0時、本日公開された藤本タツキ先生の「さよなら絵梨」という短編について
滅茶苦茶すき!!!!最高!!!!!!って感情と
バカにすんな!!!!!!って感情でごちゃまぜになっています。

ネットの意見に流されやすい性分なので、TLの芯を食ったツイートを見て自分の意見が書き換わらないうちに自分の感想をいったん整理しておこうかと思います。

前提としてチェンソーマンは大好き、ファンアパンチは好きだけど理解しきれない、っていう感じの人間です。

洋画が元ネタだったり作中に出てくる作品でもありますが、ファイトクラブくらいしかわかるものが無かったので、そこらへん絡めた言及はなにもできない・・・俺は無力で無教養・・・。

 

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まず、吸血鬼の美少女とのメロドラマ的な作劇として捉えるならば。
タツキセンセの描く「ヤバい女」像のド直球を放り込んでいてめちゃくちゃド性癖マンガだったな、っていう表層の話。

主人公とを結びつける「創作への執着」というのも説得力と切実さがあって好み。
吸血鬼としてのながい時を生きる彼女の虚無感。
一方で、刹那を切り取り作品に仕立てあげる映画を、人間でしか成しえない営みとしてどこか眩しく焦がれるような思いでいたのかと思うと、主人公との映画漬けの日々が彼女にとっても貴いモノだったのかもしれないよな。

 

あえて単調な4コマ漫画進行(からの破調としての大ゴマ)と、タツキセンセのあのタッチから醸し出されるドライなのにウェットな演出は、細かな部分には目をつむるとして(目をつむれるか?あの大オチで)上質な感動系ストーリーとして成立している。

とくにフィルムのような、スマホで撮影した映像を徹底的に漫画に落とし込んだ表現は、さらさらと読めるからこそ独特のテンポが生まれてくる。

ページのあっちこっちに目を走らせる普通の漫画とは違って、1点をながめてると勝手にカットが変わっていくような感覚、そういう意味でも映画的なのかもしれない。

漫画の技法には詳しくないので、あくまでも感じたものとして書き留めておく。

 

だからこの読み切りはただのクソ映画ではなく、
丁寧に丁寧に下ごしらえをして完成した一皿であることがキモなのだな。
それを木っ端微塵に吹き飛ばすからこそ本作「さよなら絵梨」。

 

主人公「優太」は信頼できない語り手ではあるのけれど
どこまでをフィクションと解釈するかにしても
作中で描かれる優太の感情はすべて、なによりも雄弁な真実だろうと思う。

虐待する母親への反抗、本当のことを映さない偽物の作劇、そして受け入れがたい死もなにもかも爆発オチでしか昇華しきれなかった処女作「デッドエクスプロージョンマザー」。

絵梨と出会ってからのフィルムは、とにかくはかなげで妖艶なクセのつよい彼女の魅力が全編みなぎるような描き方をしている。

絵梨をかわいく描けないとこの漫画=映画の力がそがれるだけあって、タツキヒロインの中でも最高の魅力を携えたファムファタールとして君臨していると思う。「極論、映画って女優を魅力的に撮れればそれでOKでしょ」ってポンポさんも言ってた。

 

最後の爆発オチも、真意はどうであれ確固たる意志であのド派手な大オチを選び抜いているんだから、意味を感じ取りたくなる。
感じ取る意味なんかねーーーよって作品にそっぽ向かれているけど、でも読み取ろうとすることが楽しいからいいのだ。

 

もしかすると母親同様、現実の絵梨は本当にロクでもない女だったのかもしれないし、彼女の死は本当(吸血鬼というのがウソ)で、彼女ともう会えない感傷を
そもそも「デッドエクスプロージョンマザー」のリメイク作として映画「さよなら絵梨」を考えるなら、爆発オチだって当然のことなんだよな。

 

 

それにしてもなにが本当かわからないこの感じ、
どう解釈をしても躱されるような、リアリティラインを透明化させているこの手つき、本当に意地悪だな・・・・・・。

 

「さよなら絵梨」は作者への信頼を損なう可能性を作者自ら放り込んでいるし
それどころかあまねくフィクションすべてを信じられなくなるような危うさまで突き進んでいると思う。「ぜ~~~んぶ作り話!おれの妄想!」って言われて醒めない読者はそうはいまい。
どれだけ好意的に解釈しても「最後に爆発させてなんの説明もなく終わったクソ映画」っていう評価は免れない。だがすべて計算づくでやっているのが分かるから、よけいに悪質なのだ。余計に最悪なのだ。


200ページかけてこんなオチを食わらせてくる、最高級の悪ふざけ。
なぜなら、この漫画を読んでまっさきに浮かんだ感想、作者に先読みされてぜんぶ作中で言われてるのだから。
学校の体育館で座って「なにを見せられたんだ?」と困惑したり憤ったりの生徒A,B,Cが俺たちなのだ。

もう全部わかってて、読んだ読者がどう感じるかも織り込み済みで、このサイテーな爆発オチをやったんだ。映画好きな作者が一生に一度だけ使える必殺技だよな、漫画で爆発オチ。フラクタル構造(使っておくとなんとなくかっこいい評論表現です)があまりにも気持ちよくハマってくるので、読み終わって整理していったら「お見事!!!!!!!」としか考えられなくなった。

連載でやったら大炎上だし(とくにチェンソーマン2なんかでやらかしたらもう)、でもこの爆発オチの威力をめいっぱいまで引き上げるにはたっぷりの助走が必要だし。

最高火力で爆発オチをブチかますには「チェンソーマン」からの「ルックバック」でじっくり読み込もうっていう読者がワンサカいる今、読み切りでやるしかねぇ!!
っていう作品をめぐってのリアルな状況からもこの作品の意図が感じられるのが余計に最高。大馬鹿だろ。

 

後半になると、ここで「終」って入れられそうだな~と感じられるようなシーンがいくつか続いていく。それらを超えていくととびきり美味しいデザートのような爆発オチが待っている。

でも爆発で終わるからこそスッキリする。こんな不条理も愛おしくなるのは、いくつかの"本当"が心に刺さっているからなんだろう。


ほとんどなにも信じられないこの作品で本当だったものは
語り手である主人公の感情と、例えば優太の父親が語るような創作者の矜持。絵梨が抱く創作への情熱と深淵。創作者は創作物をどう描いてもいいしどう扱ってもいい。ただそこには傷つく覚悟が伴う事。
ぼくら読者はそれを肯定してもいいし、Noを言ったっていい。白けたんならそういって良い。そもそもが虚構なのだから、なにが本当かも全部こっちの気分で受け取ればいい。

訳知り顔のオタクがネットでフニャフニャ言うのより、この作品を読んで純粋に困惑している人の声を聴いてみたいな。


「この物語はフィクションです。」
分かっていてもその虚構に思いを馳せるし、癒されるし、興奮するし、ともに絶望ができる。俺は漫画やアニメや音楽が大好きで、それは全部作り物と分かっていて、でもなーんにも良いことないような日常に、そのひとつまみのファンタジーが、欲しい。

 

こんなクソ映画みせられたのに、翻ってとんでもなくデッカイ創作愛をぶつけられて、マジでなんなんですかコレ?