「正直どうでもいい?」

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たったそれだけのための万能薬 『売野機子のハート・ビート』

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売野 機子

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   じゅりがアパートから出て行ってしまった    おれたちの にせもののアパートから 今でもひとりでアジカンの「ソルファ」や事変の「教育」を聞いているときは立ちあがってエアギターをしているので、根本的に10年前からなんら進歩がない。 漫画を読むのと同じくらい音楽を聞くのも好きで、大好きなものが2つも一緒に摂取できると小躍りしてしまう。音楽漫画が好きです。演者側でも、リスナー側でもいい。音楽が流れている漫画が好き。 そんなわけで「売野機子のハート・ビート」もドンぴしゃ。 もともと大好きな作家さんだったんですけど、今回のテーマはもうズバリ音楽。 まずこの作品集のこのタイトルをつけるのがニクいですよね。 「売野機子のハート・ビート」・・・短編集に作家名が冠せられてるのも、まるでラジオ番組名のように感じられるのもかっこいい。 ラジオ番組のようだというのはまさしく、本作はナビゲーターである著者が、いかに読者を心地よく楽しませラストシーンに運ぶかをきっちりと計算し1冊に仕上げられている感触もある。その点で言えばラジオ番組とも言えるが、ミュージシャンのミニ・アルバムに近いかもしれない。 ハート・ビート 各話の行間にはプレイ画面まで表示されて、デザインも細部に拘りが光る。 絵柄がレトロな少女漫画を思わせる作風なのに、細部には現代的なエッセンスが盛り込まれていて、そのギャップも甘酸っぱい。 全4曲。いろんな角度から、「音楽と生きる人」「人に寄り添う音楽」を描く。 すげぇ面白いってわけではないんだけどすげぇ好き。そんな本。


『イントロダクション』 有名バンドマンがとある夜明けに、一般人の女性に一目惚れする。 無骨だがロマンチストな性格の主人公。彼がこれまで歌ってきた歌詞になぞるようにシンクロしていくストーリーがとても美しいです。 この作品に登場するヒロインとか、後述する「青間飛行」のLULUとか、まさしく売野機子作品のヒロインの王道をいっている。言葉数が少なく、覚めたような顔をして、冷たい言葉を放ちながら、強く強くぬくもりを求めている。不器用な女性だ。 本作には「ああ、この瞬間って素敵だ」「こういうとき、相手を好きだと思う」というような、瞬間瞬間のロマンチシズムというか、 甘酸っぱい感触だけを遺していく断片がいくつも重ねられている。 ストーリーもしっかりしているけれど、本当に詩集のようだ。 夜明け前、過ぎるヘッドライトが君の髪を1本1本を照らしていく。 ヒロインの詳細はネタバレになってしまうんだけれど、彼女からすれば望み続けた音楽を手に入れた形にもなって、それに自分の血を混ぜていくんだろう。 彼女の執念が現実に勝ったとも言えるけれど、主人公からしても彼の空想が現実に塗り替えられていく感覚があるはずだ。男女ちがった立ち位置からひとつの曲に接していて、そして人生が交わった瞬間に、より強く光る。 パッと眩く照らし出される瞬間に宿る、男女の甘い夜の物語。 ・・・冷静になればなるほど、ヒロインが恐ろしくなるけどな!!


『ゆみのたましい』 貫かれるような力強い言葉がとにかく印象的な一片。 おねショタものだが、一筋縄ではいかない、初恋のストーリー。 高名な音楽家の母をもつ主人公のぼく。音大受験のために母に教わるべく、ぼくより6つ上の女子高生ゆみが家にやってきて、ふたりの交流が始まる。 音楽がもつ残酷な一面が描かれていて、たとえば本作では音楽にまつわる才能の話だ。ただ寄り添うだけの優しいものではなく、時として人は音楽に”選ばれる”。そして選ばれなかった人だっているのだ。 ヒロインのゆみは、恵まれていて、きっと幸福だった。 そこを主人公のぼくは幼さゆえに勘違いをして、勝手に寂しくなって、自分の知らない世界の巨大さを知る。 少年が、大人の世界に触れてハッとする瞬間に、切り刻まれたようなショックって尊いよなあ、大事だよなぁ。 けれどそんな時に、ゆみが放つとっておきのセリフが心に染み込む。 モヤモヤした気持ちがすっと透明になるような感覚がお見事でした。


『夫のイヤホン』 このコミックスでは一番好きな作品かも。 これは音楽と仕事をする人間ではなく、ただの一般市民にまつわるエピソード。 専業主夫をしている男性が、昔のヒット曲をテレビ番組で聞いてから、なーんかひっかかる感覚に囚われしまう。ずっとイヤホンで昔の曲ばかりきいてしまう。 違和感の正体を探っているだけなのに、いつもと違うようすの旦那さんに奥さんも慌てふためいて可愛いったらありゃしない。 思春期の生きづらい日々の中。 親の言葉も遠い。友人の言葉も見当ハズレ。自分の言葉も見つからない。 答えを知りたいのにだれも答えてくれない孤独の毒に犯されていく。 きっとそんな時に救ってくれたり、答えをくれたり、そもそも悩みを忘れさせてくれる・・・そんな役割と、10代の時に聞く音楽というのは担ってくれている。いや音楽に限定せずに、なにか夢中になれることとか憧れとか、とにかく自分だけが浸れる別世界というのは、本当にあの時、頼りになるのだ。 本作における音楽というのも、そういった面をフィーチャーしている。 音楽と思い出は、俺たちの中で血管につながれている。 人生は地続きで、昔聞いていた曲を再び聞いて、当時を思い出し立ちすくむ時だってある。けれど今きいている音楽を、10年後、どんな時に再び聞いているだろうか。 夫婦の空気感も大好き。穏やかな顔して、自分にとってのやわい部分を鋭利に突いてくる。それでいてポジティブで、音楽への情熱も過剰ではなく、馴染みやすい。 いい漫画だなぁ。俺はこういうぬるい漫画、大好きなんだよ。


『青間飛行』 大ヒット歌手のLULU。彼女はとある男からのインタビューしか受けなかった。 ところがその男(主人公の上司)がアメリカに渡って別の仕事を始めるってことで白羽の矢が立ったのが春紀。音楽ライターの主人公だ。 音楽ライターの仕事ってどんなのだろうっていう意味では、面白い世界を覗けてワクワクする短編となっている。 同時に、気難しい女性歌手のバックボーンから始まり、仕事を通じて音楽で繋がった男女の、遠く薄く秘密めいた、甘酸っぱいストーリーへの向かっていく。 LULU、大人の世界で怯えて縮こまる少女でしかない。圧倒的な才能のせいで、だれにも彼女は笑顔を晒せられなかった。 そんななか、主人公の上司だけは彼女に歩みよった。 上司は、どんな遣り取りがあの日にLULUとあったか、話そうとしない。 それは彼自身も、話したくない美しさをあの思い出に感じていたんじゃないかな。 恋心とかではなく、人と人の心がつながれた瞬間の、微かな振動を。 LULUが青空を仰いだシーン、映画のワンシーンみたいで泣きそうになった。


そんな感じで音楽をテーマにした短編集。 どれもこれも、いろんな角度から音楽と人の関係を描いていて堪らない。 人を選びそうな作風ではあるけれど、刺さる人にはきっとぶっ刺さる。 今後も、おぼつかない、美しい、不器用な物語を描いてほしい作家さんです。 音楽の持つ作用って時に恐ろしく、時に優しく、いろんな言葉で音楽について語る本作は 自分の中にまた新しい音楽観を作ってくれたようにも感じます。 最後に本作で印象的なモノローグを。

おれたちは ゆらぐものと ゆるぎないもとの 波間を遊ぶ

売野機子のハート・ビート』・・・・・・・・・★★★★ 好きな音楽を聞いているとき、普段より少しだけマシな自分になれる気がする。 それだけ。たったそんだけの万能薬。